4.異伝

「うみへ」          火空つばめ

 わたしたちは、石を積み上げて作られた民家の残骸の間を縫って進んでいた。
 ここがかつての村落だったと知れたのは、きみが草陰の石に躓いたからだ。きみが躓いた石は、崩れ落ちた家屋の一部だった。きみが気付かなかったのも仕方ない、家屋の残骸である石は、ほとんどが背の高い草に覆われており、あのまま何事もなく通り過ぎていれば、そこに民家の痕跡があったとは気付かなかっただろう。
「あしもとにきをつけて。またつまずいてしまう」
「ありがとう。だいじょうぶ、もうころばないよ」
 しばらく歩いていくと、少し開けた場所に辿り着いた。光を遮るように伸びている枝の一群に丸く穴が開いており、その真下に射し込んでいる光の中、比較的原型を留めたままの廃屋が佇んでいた。立方体に近い箱型の家に天井はなく、壁は手前の一面がほぼ完全に崩れてしまっているが、家の中にはかつて家人たちが囲んでいたであろう卓がそのまま残っていた。
「みて。はなだよ」
 きみは石と石の隙間から顔を出している小さな白い花をそっと摘みとり、わたしの鼻先に差し出した。
「たべられる?」
 わたしはうなずいて、口を開けた。きみの手を挟んでしまわないように注意しながら、花を受け取り、顎を動かす。わたしがとてもおいしい、と伝えると、きみは顔をほころばせ、石組みの間に群れ咲いているその花をいくらか摘んで、服の隠しにしまい込んだ。
 きみは建物の基礎だけが残っている部分を跨ぎ、家の中に入って、床に落ちて散らばった何かの道具――恐らくは食器――や、何らかの条件が揃ったために歳月を経ても朽ち果てることがなかったカーテンの布地を観察していた。それぞれを手にとって回したり逆さにしたり引っ張ったりしながら興味深げに見ている。
 ふと、きみは奥の壁に何かを見出し、手に持っていた柄付きのスプーンのようなものを卓に置いて、それに歩み寄った。
「これはなに?」
 きみが指さしたものは一枚の絵画だった。上半分は抜けるような青にぼやけた輪郭の白が浮いており、柔らかな境界線を経て、下半分は煌めくような碧が画面を埋めている。わたしは記憶領域の中のいくつかの情報と照らし合わせ、それが「うみ」というものであると断じた。
「うみ?」
 うみ、ときみはちいさな声で繰り返し、口もとを緩めてわたしの方を振り返った。
「なんだか、やわらかそう」
「とてもおおきなものだそうだよ」
「みたことがないの?」
 わたしがうなずくと、きみはふうん、と言ってまた絵に目を戻した。しばらく眺めていたかと思うと、徐に額縁ごとその絵を壁から外し、小脇に抱えて家から出てきた。
「もっていってもいい?」
「もちろん」
 きみがありがとう、と笑う。しかし、すぐに笑うのをやめ、絵の中の「うみ」を見ながらつぶやいた。
「うみが、だれかのものでないといいな」
「どうして?」
 きみは俯いて、少し考えてから、首を横に振った。
「わからない」
 きみは、黙って絵を見つめる。わたしは、黙ってきみを見つめる。葉ずれの向こうで、遠く鳥の声が聞こえた。


[2016年 03月 22日]

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