2.箱の記憶 02

 ゆっくりと目を開く。あたたかく熱を含んだ日光が、顔に、手に、降り注いでいる。生気のない青白い腕が見える。手首には木をくり抜き装飾を施した黒い腕輪がはまっている。身じろぎすると、その腕もぴくりと動いた。私はそこでようやく、それが己の腕だと認識した。
 しかし、何かがおかしい。私は今度はすぐに気がついた。
 これは私の腕ではあるが私の腕ではなく、正しくはアクィラ王の腕であった。
「王よ。本日は、兄君との会食がございます」
 従者が静かにそう告げた。途端、私は全てを思い出して絶叫した。当然、アクィラ王の口からその声が出ることはない。
 あの生々しい感覚を覚えている。血を吐き、誰の助けも得られないまま死んでいったあのおぞましい体験を。ほんの一瞬垣間見た、兄王の笑みの意味を。
 私はもがき苦しみ苦痛を逃がすこともできぬまま、今度もまたこの流れに身を任せるほかはなかった。
 兄王との会食、父王捜索の依頼、そして変わり果てた姿の父王。しかし今度は兄王から借り受けた護衛たちは姿をくらましていた。
 白い肌の王と従者はともに落胆し、己が運命を嘆き合った。その後、アクィラ王は「箱」への道を指し示し、――その「箱」を覗き込んだ。
 その時の記憶は蜂蜜酒のように濁り、鮮明ではない。だが途中まで私と彼は同じ体験をしていたはずなのだ。
 箱の中の事実へと飛び込む感覚。春風のごとき優しい膜を突き抜けた先の、音の無い世界。
 私が目を開き、その世界を見ようとした瞬間、彼の視界はぷつりと途切れ、次に私が目を開けた時には彼は「箱」の前に立っていた。
「これを持ち帰れ。これこそが我らが探していた、神の「箱」だ」
 アクィラ王は「箱」を持ち帰り、兄王の歓待を受けた。兄王はやはり、これまでとはうってかわってアクィラ王に親しげに接していた。
 このままではいけない。このままではまたアクィラ王は毒杯をあおってしまう。
 私は焦り、なんとか彼にそれを伝えようと、あらゆる方法を試した。兄王は危険だ、私に毒を盛ろうとしている、と叫び、手足を動かそうとした。しかしやはりその全てがアクィラ王に届くことはなかった。
 
 夜。宴席から戻ったアクィラ王に、あの女が水の入った杯を手渡した。あの時にはよく見ていなかったが、彼女は随分と美しい女性であるようだった。肌は浅黒く、体を覆う布は少ないが細かい刺繍が施され、煌びやかなものだ。我が国の技術ではとても作れるものではないだろう。対して顔の下半分を布で覆っており、その下の表情を窺うことはできない。不可思議な印象を受ける異国の女だった。
「アクィラ王、どうぞこちらを」
「……ああ、ありがとう」
 ひどく酩酊した様子のアクィラ王は、じっと杯の中の水を見つめていたが、やがて軽く手を振って女を居室から追い出した。
「もういいぞ。下がれ」
「……はい」
 女は少し躊躇い、名残惜しそうにその場を後にした。おそらくは王と寝所を共にするために宛がわれた女だったのだろう。
 女が立ち去るのを確認したあと、アクィラ王は水をその場に全て捨てた。
 私は理解した。
 この王は知ったのだ。己が毒杯をあおり無念の思いで死んでいくという未来を。
 王と己とがかちりと一致する感覚を覚えた。それはアクィラ王も同じだっただろう。「私」と「アクィラ王」はその瞬間、同一であった。

「兄上、こちらは神域より持ち帰った宝物です。どうぞお持ちください」
「こら、兄ではなく臣と思えとあれほど……」
「臣であればこそです。一の臣である貴方にこそ相応しい宝物と私は思ったのです」
「む。そうであれば仕方がないか」
 アクィラ王は毒の杯を、宝物と偽り兄王に渡した。アクィラ王には(私には)確信があった。アクィラ王を(私を)殺したのは、兄王であると。
 私は王としての兄が好きだった。だがそれ以上に一人きりで死ぬのは恐ろしかった。もう二度と、一人きりで死ぬあの気持ちを味わいたくはなかったのだ。

 その夜、兄王は血を吐いて死んだ。

 兄王の急逝を触れ回る従者たちを見ながら、アクィラ王は(私は)安堵に包まれた。駆け回り嘆くものたちからそっと離れ、我等は声を上げて笑い出した。これで安心だ。もう我等を脅かすものはいないのだ。
 右の腹に強い衝撃を受けたのは、その時だった。
「……?」
 目の前の光景が理解できず、アクィラ王は(私は)首を傾げた。腹には刃が刺さっていた。そのまま傷口を抉るようにぐるりと刃を回され、赤黒い血が床を大きく汚した。
 それはあの女だった。異国の使者より献上され、金の杯をもってきたあの!
 体重の全てをもって床に倒され、もう一度、振り降ろされた刃は腹を抉った。その時になって我等の感覚に痛みが追い付いてきた。
 悲鳴は上げられなかった。助けを呼ぶため息をしようとする度にひゅうひゅうと喉が鳴った。
 二撃を入れて満足したのか、女は立ちあがった。顔を覆う布から唯一窺える目は、激情にも使命にも燃えてはいなかった。何も宿していないようにすら見える、ひどく冷たい目をしていた。
 立ち去ろうとする女を、我等は必死に呼びとめた。
 待ってくれ。せめて一人にしないでくれ。一人で死ぬのだけは嫌なんだ。
 ひゅうひゅうと喉が鳴るだけで、呼びかけは、声にはならなかった。
 女は立ち去り、たった一人冷たい床でアクィラ王は死を待った。
 そうして反転――



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