「もういいかい」
裸足の少年は、砂浜で小さくそう言う。日の暮れかけた砂浜には少年以外には誰もおらず、錆びついた屋台の骨が風に煽られてぎいぎいと鳴く以外には音もなかった。
少年の立つ場所は切り立った岩場に程近く、そのそばには立入禁止の札が立っている。少年は両手で顔を隠したまま、もう一度問いかけた。
「もう、いい、かい」
「もういいよ」
振り返ると、海の上に一人の女性が立っていた。
「もういいよ」
女性は静かに繰り返す。少年は海に向かって一歩踏み出し、女性はそんな少年を両腕で抱き寄せた。砂浜が、二人分の足の形にざらざらと凹んでいく。
「いいこ、いいこ」
彼女からは夜の香りがした。堤防の上からいつか見下ろした夜の海。命なき静寂と、寄せては返る潮騒の香りだ。とてもゆっくりとではあったが、彼女の胸からもとく、とく、と音が聞こえ、少年は目を閉じてその音色に聞き入った。
彼女は少年の手を引いた。少年は逆らわなかった。一歩、一歩、海へと歩みを進め、遂に足の裏が海へと触れた。次いで足首、膝が濡れ、腰、胸、肩が浸り、最後にどぽんと音を立てて全身が海の中へと沈んだ。
不思議と息は苦しくなかった。
少年は目を開けた。海の底では何か白いひらひらしたものが手招きをしているようだった。
少年は彼女に導かれるまま、水底へと沈んでいく。
誰もいなくなった夜の海。錆びついた屋台の骨だけがぎいぎいと鳴いている。
砂浜に残された二つの足跡は、いつしか波にさらわれ消えていった。