天頂近くに人工衛星が明滅している。
上がったばかりのむっと香る雨の匂い。波と共に静かに訪れる潮の香り。規則正しく揺らめく波が砂浜に立つぼくの素足を濡らしては去っていく。
空を見上げる。人工衛星がまた瞬いた。その幽かな光がふっと消えたその時、彼女はぼくの目の前に現れた。
「こんな夜更けに、いけない子だね」
白いスカートの女性だった。彼女は海の上に浮かんでいた。その全身に濡れた様子はないのに、彼女の首元のひだだけはてらてらと光っていた。
ぼくは彼女に名前を尋ねた。不思議と、彼女が浮遊していることへの疑問は浮かばなかった。
「それは内緒だ、少年」
彼女はまるで少女のような仕草で、唇の前に指を立てた。ぼくはもうすっかり彼女に見とれてしまって、何も言えずにただ彼女の赤い唇を見つめていた。
「ふふ」
彼女の腕が伸ばされる。頬を挟まれ、体ごと引き寄せられる。
ほんの一瞬、唇と唇が軽く触れた。
「……星が瞬く隙間にまたおいで」
触れそうな距離で彼女が囁く。ぼくは何かを答えようとしたけれど、瞬きをする間に彼女の姿は消えてしまっていた。
後に残ったのは、静かな波の音だけ。
見上げると、天頂の近くでは人工衛星が音もなく瞬いていた。