A.D.7876〜 洋上にて

 顔のない立方体の異形に、極太の油性ペンを走らせる。弾力から考えるにペン先が立方体の表面にめり込んでもおかしくなさそうだったが、意外にも穴が開くこともめり込むこともなく、きゅきゅきゅ、と音を立ててペン先は立方体の側面に顔を描いていく。
 細長い点のような目が二つ。二つの目のすぐ下に、微笑んだ口を書いた途端、立方体は命を持って動き出した。
 抱えていたひるの腕からぴょんっと飛び出して、とうふちゃんはひるとよるの足元にふわふわ浮かぶ。
 とうふちゃんには、見た目の個性はほとんどない。サイズの大小はあるものの、みんな、同じ色で同じ形をしている。立方体、ぶら下がる小さな体、顔の中心に寄った笑顔。
 だけれど、その中身は個体によって様々だった。
 顔を書いた途端に弾け飛ぶように暴れ出す活発な個体もいれば、足元の個体のようにぷかぷか浮遊して時折移動するだけの個体もいた。人の真似事をしているように見える個体も、閉まりかけの戸に挟まりたがる等、おおよそ常人には理解できそうにない行動を取る個体もいる。
 そんなとうふちゃんの行動の中で、ただ一つだけ共通していることがあった。それは、命を得てからしばらくするとどのとうふちゃんも海に飛び込んでどこかへ流れていってしまうこと。
 海面にぷかぷか浮かぶ数多のとうふちゃんを見ながら、ひるは不思議そうに尋ねた。
「とうふちゃんはどうして海を目指すんだろう」
「そりゃああれだろ」
 よるはじっとりと濡れたとうふちゃんの頭を触りながら答えた。
「とうふちゃんは笑ってるだろ?」
「うん」
「ってことはきっと幸せなんだろ?」
「うん、幸せそうだよね」
「で、笑顔のとうふちゃん見てるとなんか笑顔にならないか?」
「うーんわかるようなわからないような」
「だからとうふちゃんはさ、笑顔を届けてるんじゃないか」
「笑顔を?」
「そう、笑顔を。海の向こうのどこかにまで。とうふちゃんに出会った誰かが笑顔になれるようにさ」
 よるはひるを見て、にっと笑った。ひるもつられて笑った。
「ひひ。いいなあそれ、素敵だなあ」
 ひるは水平線を見た。いつか、あの子が流れていったその先を見た。
「きっとそうだね。とうふちゃんは笑顔を運んでいるんだ」
 よるはしゃがみこんでとうふちゃんをつついた。とうふちゃんはあさっての方向を向いたまま、ぼよんぼよんと激しく揺れた。その揺れが収まるまでじっと待ってから、ひるは口を開いた。
「よる。おれさ、とうふちゃんを作っていいのかってずっと思ってた」
「なんでだ?」
「とうふちゃんって何も持っていないように見えたから」
 ひるは目を伏せた。
「生まれたとき貰ったものが何にもないのは、何も望まれずに生まれてくるのは、きっと寂しいから」
 ひるは思い出していた。船のことを。星の海のことを。名のことを。行ってしまったあぶくのことを。寂しいあの静寂のことを。
「じゃあ望んでやればいいんじゃないか?」
「望む?」
「ひるもきっとこいつらの親なんだから、こうあってほしいって望めばいいだろう」
 ひるは口をぽかんと開けて、よるを見た。
「親……」
 ぼんやりと繰り返すひるを、よるは何かおかしなことでも言ったかと首を傾げて見上げた。
「その発想はなかった」
「そうか」
「そっか、おれが望めばいいんだ」
 足元のとうふちゃんが風もないのに一度ぼよんと揺れた。ひるは少しだけ考えて、すぐに口を開いた。
「あのね、おれ、幸せであってほしいな」
「ん」
「それもとうふちゃんだけじゃなくてね、できればみんな幸せであってほしいって今思うよ」
「みんなってみんなか?」
「うん、みんな。おれが会ったことのあるみんな。おれの会ったことのないみんな。この海の先にいる人もいない人も。人間も人間じゃないひとも。みんなみんな幸せであってほしいって思う」
「そうか。それは素敵だな」
 よるは、にっと笑った。
「でしょ?」
 ひるも、誇らしげに笑った。
 ひるはとうふちゃんを抱き上げた。とうふちゃんの何を考えているのか読み取りづらい笑顔が、ひるをまっすぐに見上げた。
「だから、とうふちゃんには笑顔を運んでほしい。どこまでも笑顔を運んでみんなを幸せにしてほしい。それでおれたちがとうふちゃんを作り続けて、とうふちゃんが笑顔を運び続ければ、きっとみんなのみんなを幸せにすることだってできると思うんだ。……笑顔を運ぶきみたちのあり方が、きみたち自身が望んでやってることかは分からないけど、少なくともおれはそれを望んでるよ」
 とうふちゃんがひるの言葉を聞いていたのかは分からない。だけど、ひるの言葉が終わるまで、とうふちゃんはじっとひるを見上げていた。
「ね、やってくれる?」
 ひるが尋ねる。
 とうふちゃんは突然細かくぷるぷると震え出したかと思えば、弾け飛ぶようにひるの腕を抜け出し、二人の周りを高速でぐるぐると五周して、そのままの勢いで海へとダイブした。
 落ちていくとうふちゃんを目で追った後、よるとひるは顔を見合わせた。ひるは、ひひひと笑いだした。
「今のってどっちかな」
「さあな。多分肯定なんじゃないか?」
「ひひひ、そうだね。きっとそうだ」
 海に落ちたとうふちゃんは、仰向けに浮かんで、先に海面に浮かんでいたとうふちゃんたちに合流した。
 とうふちゃんは船の上の二人を見た。
 二人もとうふちゃんを見ていた。
 その時、ごうと音を立てて一陣の風が吹いた。海面にはかすかに波が生まれて、海に浮かんだとうふちゃんたちは一斉に動き始めた。
「いってらっしゃい、とうふちゃん! 元気でねー!」
 ひるは船縁から体を乗り出して、大きく手を振った。
 仰向けに浮かんでいた一体が、小さな手をぱたぱたと振ったように見えた。ふたりは顔を見合わせて笑い合った。
 風によって生まれた小さな波は、いつしか大きな波になって二人の乗る船をゆらゆら揺らす。水面に浮かんだ立方体の影の群れは、見る見るうちに遠ざかって、白濁した水平線の彼方へと消えていった。


(了)



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