A.D.6876 洋上にて

 船縁から突き出したクレーンの先に滑車がある。滑車にかけられた縄をたぐり寄せてバケツをしっかりとくくりつける。
「突然バケツがほしいなんて言うから何かと思ったよ」
「あの海をくんでみようと思って」
「何かしたいことでもあるの?」
「いや、なんとなく」
「なんとなくかー」
 縄が緩んでしまわないか何度もぐいぐいと引っ張る。確認のために縄を持ってバケツをぶら下げ振り回す。
「そういえばあんたは泳げるのか?」
「さあ? わかんない」
「そうか」
「泳げてもあの海では泳がないほうがいいよ」
「そうだろうな」
 船縁からバケツを放り投げる。縄のもう一方を軽く握ってバケツが海面に届くのを待つ。からからから、と軽い音を立てて滑車が回る。彼は推定煙草をくわえた。
「ぷはー。きみが自分から何かしようとするなんて珍しいよな」
「そうか?」
「そうだよ。いつも何言っても興味なさそうにぼけっとしてるじゃないか」
「失礼な。こんな探求心にあふれた男を捕まえて」
「ひひひ、どの口が」
 縄を引いてバケツを引き上げる。上がってきたバケツには白く濁った液体が半分ほど入っていた。
「改めて海とは思えない色だな」
「海ってどんな色だっけ」
「あー青?」
「青? そんな鮮やかな色だった?」
「いや、赤のときもあるな。冷静に考えれば透明?」
「いっそ染めてみる? そしたらあの海も海っぽくなるかも」
「馬鹿言え、どれだけペンキが要ると思ってるんだ」
「ペンキで染めるの?」
 バケツを足下に置いて、さて、と二人は考え込む。
「この海、これからどうするの?」
「うーん。この海って白い液体だけど牛乳っていう感じじゃあないんだよな」
「そうなんだ」
「どちらかというと生クリームに似ているような」
「生クリームってあれだよね、こういうので混ぜるやつ」
 彼は泡立て器を取り出した。彼がボタンを押すとヴィーンと音を立てて、先端の金属が回転した。
「あんたそれどうしたんだ」
「釣った」
「なるほど」
 男は納得して、泡立て器を受け取った。
「じゃあとりあえず混ぜてみるか」
「クッキングしちゃう?」
 男は泡立て器をバケツにつっこみ、撹拌を始めた。しばらくすると粘度が増してきたので、やはりあの海は生クリームだったのではと二人が盛り上がっているころ、液体の中に小さな立方体の塊が出来始めた。立方体の塊は見る見るうちに大きくなり、泡立て器では対応しきれなくなったため、男は菜箸に持ち替えた。そうしてそのまま混ぜ続けると、最後に残ったのは謎の生物のような立方体だった。
 立方体は海と同じ白色をしていた。立方体の下部には不自然に小さな手足と体がついていた。おおよそ自立歩行もできそうにない大きさと触感だ。全体から見るとおそらく立方体部分が頭なのだろうが、六つある面のどこにも顔はついていなかった。当然、呼吸もしていない。
「なんか凝固した」
「しかくい。生き物かな」
「どうかな。頭と体はあるみたいだが」
 彼は指の先でそっと立方体をつついてみた。つつかれた立方体の不自然に大きい頭はぼよんぼよんと左右に揺れた。
「ひえっ」
「うわ気持ち悪い」
 予想外の動きと弾力に男は少し後ずさった。彼は興味深そうに立方体を見つめた。
「ひひひ、ぐにゃぐにゃだねえ」
 つんつん。ぼよんぼよん。彼は立方体を何度もつついた。その度に立方体は大げさに左右に揺れた。
「あんまりいじめてやるなよ」
「いじめてないよ。一緒に遊んでるだけだよ」
「そうか」
 その間、男は立方体を色々と観察していた。さっぱり単位の読めない巻き尺で長さを測ってみたり、温度計をさして体温を測ってみたり、彼と一緒につついて反応を見たりしていた。
「ふう」
「終わったの?」
「ああ。そろそろこいつも海に帰してやらないとな」
「えっ」
 男は立方体を持ち上げてバケツに入れた。
「この子、流すの?」
「混ぜたらできただけだしな。海に帰してやったほうがきっとこいつもしあわせだろう。キャッチアンドリリースだ」
 男が立ち上がろうとするのを、彼はバケツを掴んで押しとどめた。
「だめ」
「なんでだ」
「海に流されてもこの子はしあわせじゃないよ。だからだめ」
「どうしてしあわせじゃないって思うんだ」
「しあわせじゃないから。だからだめ」
「理由になってないぞ」
「大体どうしてきみはきっとしあわせだなんてそんなことが言えるの。きみはこの子じゃあないのに。この子の気持ちなんて分かるわけがないよ」
 男はつい、むっとなって言い返した。
「あのな、そんなに深刻な話か? こいつをよく見ろよ。顔もないし、呼吸もない、鼓動も聞こえなければ、全身の骨もない。生きているのかどうかさえ定かじゃないんだぞ。そんなこいつが本当に何かを思っているだなんて考えてるのか?」
「あるかもしれないじゃないか。さみしい思いをするかもしれないじゃないか。長い間眠って、目が覚めて、一人で、わけもわからないまま知らない場所を漂うかもしれないじゃないか。そんなの親のすることじゃないよ」
「俺はこいつの親になった覚えはない」
「きみが親じゃなかったら誰がこの子の親だっていうのさ!」
 彼は男が持ったバケツを強く引っ張った。男も取られてなるものかと、バケツの縁を持つ手に力を込める。
「はなせ」
「いやだ!」
 二人はぐぐぐとバケツを引っ張り合う。しばらくの間、二人の力は拮抗していたが、ふとした拍子にバケツを掴んでいた彼の手がすべり、バケツから離れてしまった。
「あっ」
「あっ」
 立方体が入ったバケツは二人の手からすっぽ抜けて、勢い余って船縁を越えて、そのまま白い海へと落ちていった。ちゃぽんと間抜けな音を立てて水面に落ちたバケツの横、同じく海に落ちた立方体がぷかぷかと浮かぶ。
「ああ!」
 彼は咄嗟に釣り竿を振りかぶり投げ入れて立方体を助けようとした。しかし立方体は海面に浮いたまま、風も波もないのに船からどんどん遠ざかっていってしまう。彼は体を乗り出して必死に立方体へと手を伸ばした。
「あぶないぞ」
「だって、あの子が、ああ」
 身を乗り出して落ちそうになった彼の体を、男が掴む。彼は釣り竿を振り回した。立方体は遠ざかり、遠ざかり、遂に船からは見えなくなってしまった。
「ひどいよ、あんまりだよ」
 彼はべちゃんと座り込んで俯いた。男は立方体が消えていった海を見て、彼を見て、少し迷ったあと、彼の目の前に座った。
「……すまん。俺が悪かった」
 彼は顔を上げなかった。彼は片手で、男の服の裾を掴んだ。
「おれも、ごめんなさい」
 彼は深く俯いた。
「だからそこにいて。どこかにいかないで」
「……ごめんな」
 男は、彼の頭の上に手を置いた。
 海には相変わらず波はなく、風も相変わらず凪いでいた。



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