※あるおかしな男女の場合

 一組の男女が丘の上をいく。
「ねぇ、エリオット」
 少女は青年を見上げる。少女の緩やかにカールした白髪が、ふわりと揺れる。
「私、おなかがすいたわ」
「またかよ……」
「だっておなかがすいたんだもの」
 少女は言いながらぷうっと頬を膨らます。だが青年は我関せずと言った様子でそっぽを向いた。
「さっきあーんなに食べたじゃないか」
「でもおなかがすいたんですもの!」
「太るぞ?」
「ふっ、太りませんものー!」
 少女は憤慨して、眉を寄せ、唇を尖らせる。幼いとはいえ、彼女もやはり女。その手の話題には敏感なのだろう。うー、と小さく唸りながら青年を睨みつける少女の目には、勢い余って涙まで浮かんでいた。
 流石に悪いと思ったのだろうか。青年はしばらく視線を泳がせた後、少女と目を合わせると、何かを言おうと口を開き――
「……エリオット?」
 なに? とでも言いたげに軽く首を傾ける少女。彼女の機嫌は既にころりと元に戻っていた。
 意表を突かれた青年は黙り込む。少女は青年の背負う鞄へと目を向けると、にまりと笑った。
「ねぇ、エリオット。あの時のパンはどうしましたの?」
 先の町で手に入れたパンが入っているはずの鞄を視線で示しながら、少女は言う。
 青年は片手で軽く額を抑えて、はあ、と嘆息した。
「パンならさっき全部お前が食べただろ?」

 二人は、歩いていく。


※籠の少女の場合

 赤く錆びた銀色が煌めいて、私は籠の中に落下した。
 籠の中に落ちるまで、私はきれいなドレスときれいな宝石を身につけて、とても静かに平和に暮らしていた。自由とは言えなかったけれど、きっと幸せだった。
 だって、私の前にはいつだって、パンもケーキもあったのだから。きっと彼らよりは幸せだった。いつだって不平不満を言う彼らよりは幸せだった。
 いつだって侍女たちは呼べば来てくれたし、お友達はあからさまな恨み辛み妬みを持っている人たちがたくさんいた。私の周りには人があふれていた。
 私はそれが当たり前だと思っていた。
 でも籠の中に入れられて、私は遂に一人になった。乱暴に突き落とされた私は砂にまみれて煤にまみれて、流れた葡萄酒が髪を浸して、やがて乾いた。
 話し相手も、遊び相手もいなかったし、ゆっくりと何度もまばたきをしてみても、世界は何にも変わらなかった。だから私は動きを止めた。
 すると私から一本の芽が出た。芽はぐんぐんと成長して、鋭い棘のついた蔓を伸ばして、いつしか、私をすっぽりと覆い隠していった。
 視界が全て鮮やかな緑色で埋まった頃、私は人形のように固まったまま、ふわふわと考えていた。
 私があんなことを言ったのが悪かったのかしら。そうね、確かに酷い事だったのかも。でもそれはもしかしたら本当の事ではないのかもしれないのにね。
 語りかけるように考えて、誰も私の話を聞く人がいないことに気づく。そして私は悲しくなった。
 籠の中から逃げ出そうと動いた。すると、私の首に幾重にも巻き付いた蔓が、不意に命を得たかのように私を締め付けてきた。蔓の棘が、肌に食い込んだ。
 **がないのなら、***がないのなら、***を食べればいいじゃない。
 償いみたいに、そうやって叫ぶ真似をしたその時。
 突然伸びてきた二本の腕が、私をそっと抱きあげた。


※あるおかしな男女の場合

 一組の男女が丘の上をいく。
「ねぇ、エリオット」
 少女は青年を見上げる。少女の緩やかにカールした白髪が、ふわりと揺れる。
「私、おなかがすいたわ」
「またかよ……」
「だっておなかがすいたんだもの」
 少女は言いながらぷうっと頬を膨らます。子どもっぽい挙動。腹の底から湧き上がる感情を決して顔には出さずに憎まれ口を叩いてみる。
「さっきあーんなに食べたじゃないか」
「でもおなかがすいたんですもの!」
「太るぞ?」
「ふっ、太りませんものー!」
 少女は憤慨して、ほんのすこし寄せられた眉に、不平そうに尖った唇。潤んだ瞳が青みを帯びた金色で揺れる。幼い怒りによって上気した頬。喉がごくりと鳴る。
 頭がぐらぐらする。まるで彼女の白い首を彩る花々に怪しげな術でもかけられているような――いや、実際のところ術をかけられているのだろう。自分は、彼女に。
 可愛らしい彼女。いきなり襲いかかったら、自分に懐ききったこの少女は一体どんな顔をするのだろうか。ぐちゃぐちゃに歪めて、ああいっそ――食べてしまいたい。
「……エリオット?」
 真っ直ぐな視線。青年は奥歯を噛みしめ、倒錯的な衝動をぐっと押し殺す。
「ねぇ、エリオット。私考えましたの!」
 世紀の大発見を発表するように勿体ぶって、少女は堂々と宣言した。
「パンがなければケーキを食べればいいじゃない!」
 得意げな笑みを浮かべる少女。くすぶっていた激情があっさりと引いていく。青年は仕方なさそうに笑いながら、彼女の額をこつんと小突いた。
「ケーキもないんだよ、馬鹿」


※腹を空かせた青年の場合

 青年は腹を空かせていた。いつだって腹を空かせていた。
 食べることができる物なら何でも食べた。甘い物も辛い物も酸っぱい物も苦い物も。味がする物も味がしない物も。
 青年は、もっともっと食べ続けたいと望んだ。
 すると青年の前にパンがあった。青年はパンを切り分けて食べた。
 パンはとてもたくさんあったので、青年は存分にパンを食べた。葡萄酒もあったのでたくさん飲んだ。
 それら全てを食べ終えて、青年は少しだけ満たされた気分になった。
 それでも青年は腹を空かせていた。
 青年はどこへともなく彷徨い始めた。甘いものも辛いものも酸っぱいものも苦いものも味がするものも味がしないものも、出会うたびに青年は食べた。行儀正しくナイフで切り分けて。
 そうやって青年はいつしか、ある場所へと辿り着いていた。そこはどこにでもありそうなありふれた場所で、だけどとても悲惨な状況になってしまった場所だった。
 昼飯時だからだろうか、役人は誰一人いなかった。
 青年は横たわる人々の足元をすり抜けるように進んでいった。何かに吸い寄せられるかのように。甘美な何かが呼んでいるかのように。
 奥まった場所で青年は息を呑んだ。
 彼女の体はそこに無造作に放り出されていた。
 そして彼女は籠の中にいた。
 籠には棘の付いた蔓が巻き付いていた。籠には眩しいほど鮮やかな原色の花が咲いていた。目にした瞬間、強烈な目眩が襲った。網膜から侵入した色は脳髄を抉り、舌の奥に鈍い痺れを残して去っていった。籠の中に山盛りになって今にも溢れ出してしまいそうな毒入りの砂糖菓子。そんなものを連想した。
 籠の中の繁みの奥へと、青年はそっと腕を伸ばした。


※あるおかしな男女の場合

 一組の男女が丘の上をいく。
「ねぇ、エリオット」
 青年を見上げる。緩やかにカールした白髪が、ふわりと揺れる。彼はそれを見ている。
「私、おなかがすいたわ」
「またかよ……」
「だっておなかがすいたんだもの」
 言いながらぷうっと頬を膨らます。我ながら子供じみてた仕草だとは分かっているが、どうやら彼はこういうのが好きらしい。
「さっきあーんなに食べたじゃないか」
「でもおなかがすいたんですもの!」
「太るぞ?」
「ふっ、太りませんものー!」
 憤慨してみる。ほんの少しの本気も混ぜて。眉を寄せて、唇を尖らせる。その一挙動ごとに首に纏った棘が肌に食い込む。ずくりと痛む傷口に、ここにある実感がして、僅かに頬が緩む。でも彼はきっと気づいていない。
 彼はただ黙り込んだまま、私を見つめている。崩れかけた思考の源泉に棘から上り来る鋭い稲妻が走る度に、重なり連なったような形状の花弁が濃厚な香を放つ。
 どうかしら。私は魅力的かしら。美味しそうに見えるかしら。
 その答えは、彼の動揺し泳いだ瞳が雄弁に語っていた。
「……エリオット?」
 真っ直ぐに見つめ、どうかしたのかと視線で問いかける。それは本当に意地悪いことで、残酷なことだと私は知っている。でも、私のせいで葛藤している彼を見るとどうしても、虐めずにはいられない。そんなことをしても私はきっと許される。だけど不意に確かめたくなる。
「ねぇ、エリオット。私考えましたの!」
 得意げに微笑みながら言う。彼ならきっと許してくれると信じて。願って。
「パンがなければケーキを食べればいいじゃない!」


※一と六分の一の旅人たちとパンと葡萄酒の場合

 彼は大道芸人だった。彼は芸を見せながら町々を旅しているのだと言った。彼は人の良さそうな気さくな好青年であったので、私は快く了承した。
 彼の荷物は鞄一つだった。人が一人入れそうなほどの大きな鞄だ。中にはきっと商売道具が入っているのだろう。興味を持った私は、彼の断りなく鞄に手を伸ばした。
「その鞄に触らないでください」
 それまでとは全く違う硬質な青年の声。振り返ると、無表情のままにこちらを睨みつける青年の姿があった。
「大切なものなんです。絶対に、触らないでください」
 触るなと言われれば触りたくなる、見るなと言われれば見たくなる。私は青年が外出した隙に鞄をこっそり開けることにした。
 鍵は付いていなかった。重厚な留め具を外す。鞄の中は敷き詰められた白い布と棘を持った蔓と咲き誇る花々に埋め尽くされていた。その只中に彼女はいた。
 一目見て精巧に作られた人形だと思った。白磁のような肌に、透き通るほどに白く滑らかに流れる髪。突然瞼が開き、青みを帯びた金色の瞳がしっかりと私を捉えた。
「あら?」
 鈴を転がしたかのような可憐な声色。彼女を彩るように咲く花の香と色も相まって、目の奥で何かが弾けたようなちかちかとした感覚がした。
「こんにちは。はじめまして、おじさま?」
 鞄の中には、生きた少女がいたのだ。予想外の状況にどう対応すればよいのかも分からず、目を瞬かせていると、少女は目を細めてくすくすと笑い始めた。
「本当に久しぶりだわ、エリオット以外の人と話すなんて。……ねぇ、なにかお話を聞かせてちょうだいな。私、とても退屈しているの」
 私は驚愕やら緊張やらで乾ききった喉を唾で潤し、少女に尋ねた。何故こんなところに入れられているのか、もしかして酷い目にあっているのではないか、と。
「ええ、エリオットったらひどいのよ! 私がおなかすいたって言っているのに、何も食べさせてくれないんだもの!」
 ぷんぷんと怒る少女。可愛らしい。私の頭は未だ状況を飲み込めてはいなかったが、それだけは理解した。
「何を、しているんですか?」
 開け放たれた戸の外に青年が立っていた。目を吊り上げ、静かに怒っていた。まるで抜き身の刃を突き付けられたかのような緊張。
「その鞄に触らないでください、と言いましたよね?」
「あらダメよ、エリオット。そんな風に怖い顔をしちゃ」
 そんな青年をたしなめたのは、鞄の中の少女だった。
「この方はこの家の主なのでしょう? 泊めていただいているのに失礼だわ」
 少女に諭されて青年は仕方ないと言いたげな表情で黙りこみ、私を部屋から追い出した。もう一秒だって彼女を他人の目に触れさせたくないと言いたげに足早に。
 部屋外で目の奥に残る少女の残滓を懐かしむように瞼を閉じ、私は考える。あんな風に閉じ込められて彼女がよく思っているはずはないのに。もしかして、と。ある疑念が頭をよぎる。彼は誘拐犯なのではないだろうか。
 暫く経って青年は再び外出した。私は、彼女が腹をすかせていたことを思い出し、台所にあったありったけのパンを抱えて、彼女のもとへ走った。そして、彼女に自分と逃げようと伝えた。自分と来ればパンもケーキも食べさせてあげるもうひもじい思いをすることもない、と。
「ありがとう、おじさま。優しいのね」
 少女はとても嬉しそうに、可憐に微笑んだ。
「でももっといいものがあるわ」
 その言葉はそれまでとは全く異質な響きで、私の脳を揺らした。その時私は、何か取り返しのつかない間違いを犯してしまったことにようやく気づいた。
「パンもケーキも無いのなら」
 少女の大きな目が細められる。背筋に氷を走らされたような。少女の瞳に、花々に見つめられ、足が動かない。
「――あなたを食べればいいじゃない」
 邪気のない笑顔で、少女は囀るようにそう言った。
   *

 戸を開けた瞬間に広がる濃厚な香り。もう既に錆びかけた原色にその部屋は塗り潰されていた。青年は片眉だけを上げて、軽い口調でその犯人をたしなめた。
「こーら」
 慈しむような目で自分より大分低い場所にある彼女の顔へと、青年は語りかける。
「こんなに食い散らかして……はしたないだろ?」
 青年を見上げた少女の口の端は、今しがた食べ終わった食事によって汚れていた。
「駄目だろう、パンを食べる時にはちゃんとナイフで切り分けて食べなきゃ」
「仕方ないわ、私はあなたのようにうまくナイフを使うことができないのだもの」
「でもなー、どんなパンもどんなケーキも、二人で半分この約束だろ? これは一体どういうことだ?」
「う、ごめんなさい……」
 少女は視線を下げ、申し訳なさそうに謝った。しかし、次の瞬間にはころりと表情を変え、
「ねぇ、エリオット。私、考えましたの」
 得意げに。ただしその口の端に浮かぶ笑みは、どこか艶やかな色を湛えている。それは、歳不相応の誘惑の色。
「パンがないのなら、ケーキがないのなら」
 少女は上目使いで青年を見上げる。目尻を下げ、ずっと抑えてきた衝動を、少女は遂に口にする。
「わたしを食べればいいじゃない」
 耳朶を打つ軽やかな響き。湧きあがる食欲を抑えきれず、青年は、ごくりと唾を飲み込む。
「……そうだね」
 絞り出すように呟かれた返答。欲望から思わず上がってしまっていた口角を無理矢理に下げ、大きく深呼吸し、青年は少女に穏やかに微笑みかけた。
「またの楽しみに取っておくよ、マリー」
 青年は、首から上だけの少女を抱きあげて、そっと彼女の口の端を舐め上げた。


※あるおかしな男女の場合

 一組の男女が丘の上をいく。
「ねぇ、エリオット」
 少女は青年を見上げる。少女の緩やかにカールした白髪が、ふわりと揺れる。
「私、おなかがすいたわ」
「またかよ……」
「だっておなかがすいたんだもの」
 少女は言いながらぷうっと頬を膨らます。だが青年は我関せずと言った様子でそっぽを向いた。
「さっきあーんなに食べたじゃないか」
「でもおなかがすいたんですもの!」
「太るぞ?」
「ふっ、太りませんものー!」
 少女は憤慨して、眉を寄せ、唇を尖らせる。幼いとはいえ、彼女もやはり女。その手の話題には敏感なのだろう。うー、と小さく唸りながら青年を睨みつける少女の目には、勢い余って涙まで浮かんでいた。
 流石に悪いと思ったのだろうか。青年はしばらく視線を泳がせた後、少女と目を合わせると、何かを言おうと口を開き――
「……エリオット?」
 なに? とでも言いたげに軽く首を傾ける少女。彼女の機嫌は既にころりと元に戻っていた。
 意表を突かれた青年は黙り込む。少女は青年の背負う鞄へと目を向けると、にまりと笑った。
「ねぇ、エリオット。あの時のパンはどうしましたの?」
 先の町で手に入れたパンが入っているはずの鞄を視線で示しながら、少女は言う。
 青年は片手で軽く額を抑えて、小さく笑った。
「パンならさっき全部お前が食べただろ?」

 二人は、歩いていく。
 楽しそうに歩いていく。
 ――一人分の足音で。



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