河童の川流れ

 ある晴れた日のことです。
 いつも通りおばあさんが川で洗濯をしていると、川上からどんぶらこどんぶらこと……河童が流れてきました。

 緑のうろこに覆われた肌に、頭の皿、背中の甲羅と、それはどこからどう見ても河童そのものでした。
 突然の出来事に驚いたおばあさんは、洗濯をすることも忘れ、ただただ目をまん丸に見開き、口をぽかんと開けたまま、流れてきたその河童の姿を見つめました。
 河童は顔を水の中につけたまま、うつぶせの姿勢で水面にぷかりぷかりと浮いていました。穏やかな表情の川は、そんな彼をゆったりとした流れで下流へと押し流していきました。
 おばあさんの右手側から正面へ、正面から左手側へ。ゆっくりゆっくりと河童は流されていきました。
 その時。彼が流されていく先に、おばあさんは大きな岩を見つけました。
 おばあさんは立ち上がり、彼に危険を知らせようと口を開きましたが、時既に遅し。
 ゴッという鈍い音を立てて、河童は岩に衝突してしまいました。
 彼に呼びかけようと口の横に手を当てたままの姿勢でおばあさんが固まっていると、彼はぶくぶくと水面に泡を吐き出しながら沈んでいきました。
 慌てたおばあさんは、うひゃあだとか、ひやぁだとかいう叫び声を上げて、気を失って水面にぷかりと浮かんできたその河童へと駆け寄りました。

 次に河童が目を覚ましたとき、彼は暖かな光の差し込む小屋の中にいました。彼の体の上には襤褸、彼の額の上には濡れた手ぬぐいが乗っています。
 彼はむくりと起き上がると、何度か瞬きをした後に、黒くて大きな目をぎょろりと動かして、辺りをぐるりと見渡しました。
 天井の低いとても小さな小屋でした。板張りの床にはいくつもの染みが、囲炉裏には温度を失った灰がありました。
 状況をよく呑み込めていない様子で、彼がきょろきょろと首を巡らせていると、彼の背中で柔らかな声が響きました。
「もう大丈夫なのかい?」
 振り返ると、そこには浅黄色の頭巾を被ったおばあさんの姿がありました。
 彼は飛び退ると目を真ん丸にして、おばあさんをじっと見つめました。そして、何か言いたげな表情で、深緑色のくちばしを何度も開け閉めさせてみせました。
 そうやって慌てふためく彼をよそに、おばあさんはふふっと微笑みました。
「おまえさん、河童だろう?」
 おばあさんにまっすぐに見つめられ、河童は居心地悪そうに目を逸らしました。
「安心おし。別に捕まえようだなんて考えちゃいないよ」
 穏やかな笑みを浮かべながら、おばあさんは河童の額から落ちた手ぬぐいを拾い上げて、そっと水に浸しました。河童は言葉を発することのないまま、それを見つめていました。
「でも、どうしてまた川を流れてきたりしたんだい? 河童といえば、泳ぎが得意なもんじゃないのかい?」
 すると、河童はふんと鼻を鳴らし、得意気に胸を張って答えました。
「河童だって川を流れたい時だってありまさぁ」
「でもねぇ、さっき岩にぶつかってたじゃないか」
「クェクェッ。どうも、お恥ずかしいかぎりで」
 カエルのようなアヒルのような不思議な声で小さく笑うと、彼は照れくさげに頭を掻いてみせました。
 二人は顔を見合わせると、堪えきれなくなったのか小さく吹き出し、互いに声を立てて笑い合いました。
 やがて河童はふと笑うのをぴたりと止めると、辺りを見渡しました。
 ぼろぼろになった布団、欠けた茶碗、箸。それらはどれも一人分しかありませんでした。
「……ばあさん、もしかして一人で暮らしてるのかい?」
「そうだねぇ、もう随分と一人だねぇ」
「ずっとかい?」
「息子、ソウイチロウっていうんだけどね……。あの子が街にでていっちまってからは、ずっとかねぇ……」
 彼は俯くと、申し訳なさそうな目でちらりとおばあさんを窺い、やがて何かを決めたかのような表情で顔を上げました。
「クェクェクェッ。俺にはどうにも耳が痛い話でさ」
「そりゃまたどうしてだい? おまえさんみたいに親孝行そうな子が」
「親孝行なんかじゃあ、ありやせんよ」
 河童はまるで自分をあざけるかのように、不自然なほどに陽気に声を上げて笑ってみせました。
「親元飛び出して、都会にいっちまった親不孝者でありまさぁ」
 するとおばあさんは不思議そうに首を傾げました。
「おや、河童には都会も田舎もないんじゃないかい?」
「川の上流の方にできたあれ……ダムっていいやしたっけ? あれでできた湖の中に俺たちの街があるんでさ」
「へぇ、そうなのかい。おまえさんたち河童も大変なんだねぇ……」
 河童はあちらへこちらへと視線を泳がせた後、そっと話を切り出しました。
「なぁ、ばあさん」
「なんだい?」
「……その、提案なんですがねぃ」
 彼は一度大きく息を吸って吐くと、しっかりとおばあさんの目を見つめて言いました。
「俺と一緒に、街に来ませんかい?」
 河童はしばらくの間真剣な面持ちでおばあさんの返事を待っていましたが、おばあさんのぽかんとした表情にふと気付き、慌てて言い訳をするかのように、早口でまくし立てました。
「街なら色々と便利でしょうし、店も病院もありまさぁ。こんな所よりずっと……」
「……残念だけど、そいつは無理な話だねぇ。おまえさんは河童で、あたしは人間なんだから……」
「そうかい……」
 彼は小さくそう答えると、残念そうに項垂れました。おばあさんは桶の中に積み上げてあったキュウリを一本手に取り、彼に差し出しました。
「食べるかい?」
 差し出されたキュウリを彼は無言で受け取りました。
「あの子もキュウリが大好きでねぇ」
 感慨に浸っているのかおばあさんはそれきり黙り込み、小屋の中にはぽりぽりとキュウリをかじる音と小屋の外で戯れる小鳥の鳴き声だけが響きました。
「まるで本当にあの子が戻ってきたみたいだねぇ……」
「……クェッ、……そうですかい」
 鼻先を、正確にはくちばしの先をかりかりと掻いて、彼は俯きました。そうして、ぎゅっと目をつむり、どこか悲しそうな色を浮かべ。
「そいつぁ、なによりでさ」
 唇ならぬくちばしの端を吊り上げて、にかっとわらって見せました。
 おばあさんは微笑み返し、ふと思い出したかのように尋ねました。
「そういえば、おまえさんの名前を聞いてなかったねぇ」
 突然の質問に河童はびくりと肩を震わせ、何度か口を開け閉めし躊躇った後、答えました。
「ソウイチロウ」
 予想外の河童の言葉におばあさんは目を丸くして、彼の顔をまじまじと見つめました。河童はまるでおばあさんが一文字も聞き逃さないようにするかのように、ゆっくりと自分の名前を繰り返しました。
「ソウイチロウっていいまさぁ」
 おばあさんは河童の顔を見つめたまましばらくの間黙り込んでいましたが、やがてとても嬉しそうに、にこりと笑いました。
「おやおや、名前まで一緒だなんて本当にあの子が帰ってきたみたいだねぇ」
 河童はほんの数瞬固まった後、ゆっくりとぎこちなく微笑みました。おばあさんはそんな彼のもとに歩み寄ると、そっと彼の手に自分の手を重ねました。
「今日はありがとうね。老い先短いこの身にゃあ、いい冥土の土産になったよ。……これでもう、思い残すことはないかねぇ」
 そう呟くおばあさんの手を、河童はひんやりと湿った手でしっかりと掴みました。
「そんなこと言わんでくだせぇ」
 まるでおばあさんが向こう側へ行ってしまわないように、繋ぎとめようとするかのように。河童は、おばあさんの渇いてごつごつになった手をぎゅっと握りました。
「何度でも来まさぁ。何十回だって、何百回だって、毎日だって……」
 縋るような口調でそう言うと、河童は祈るように頭を垂れました。
 おばあさんは何が起こっているのか分からず目を瞬かせましたが、やがて彼と同じ水かきのある手で彼の手を優しく包み込み、彼と同じくちばしのある緑色の顔に深く深くしわを刻んで、にっこりと笑いました。




――これは、遅すぎた親孝行の物語。



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