そうして、森は蘇る。
気高き亡骸の上に芽生えた一本の弱々しい苗木は、いつしか雄々しく聳える大樹へと姿を変える。
凍てつく季節を溶かし尽くす、柔らかな春の光の中。倒れ伏す木々は大樹へと巻き込まれ、新たな樹の海は広がりはじめる。
背中の命が、生の喜びに咽ぶかのように、大きく脈打つ。
来るべき時が来たのだと「わたし」は悟った。
引き裂かれる痛み。葉をちぎるような音が体の底から響く。「わたし」はただ、体を丸めて耐え続ける。
背へと入る一筋の亀裂。徐々に押し広げられ、「わたし」の内にある命は水気を帯びた大気へと曝される。
一つの朝露が溜まりこぼれ落ちるほどの長いようで短い時を経て、くしゃくしゃになった一対の翅が、背中にゆっくりと立ち上がる。
育まれた命。横暴にも背を食い破り、芽生えくる命。折り畳まれていた翅はいつしかぴんと真っ直ぐに伸びる。その透明さは太陽の恵みを一身に受け、誕生の幸せに輝いていた。
「わたし」は憎くて仕方なかった。
きっと「わたし」もああなるのだろう。かつて目にした緑の竜の最期のように。かつて滅びた樹海のように。
この忌まわしく醜い蝶に背を食い破られ、惨めな姿で死んでいくのだろう。
「わたし」は悟り始めていた。
きっとこのためだけに生まれてきたのだろう。何になることもなく、何かを愛することもなく、この蝶の苗床として「わたし」は生まれ、そして死んでいくのだろう。ただ一度の救われる機会さえ、幼い「わたし」は棒に振ってしまったのだから。
悔しかった。納得などできるはずがなかった。
だからといって敷かれた道は、変わりはしない。「わたし」はただ、かつての誰かが辿ったその道筋を終わりに向かって辿り続けることしかできない。
翅は渇いていく。赤子の血潮のごとき鮮やかな色を増していく。
「わたし」は一層強く、芽生えてしまったこの新しい命を憎んだ。
( ある憎しみのものがたり 2 )
*
「私」は走っていた。
生まれ来たあらゆる命を踏みつけ、蹴り飛ばし、必死に走っていた。
「私」は逃げていた。逃げ続けていた。逃げることしかできなかった。
真っ直ぐに天を目指して伸びつづける命。その頭上で薇状に丸まり垂れ下がる命。その足元で岩へと必死にへばり付く命。
全てを喰らい尽くす強大な機械も、かつて見捨ててしまった美しき友人も、大地を食い破り生まれた瑞々しく新しい命すらも、「私」は恐ろしくて仕方がなかった。
一瞬でも立ち止まってしまえば、生まれ続け生み続ける生の奔流に飲み込まれてしまいそうな錯覚に、「私」は突き動かされていた。
見えないほど緩やかに迫りくる、あのひとの生まれ変わりから生まれた命たち。「私」の眼にはあのひとが「私」を捕まえようと腕を伸ばしているように見えていた。
ごめんなさい、ごめんなさい。謝罪の言葉を幾度も並べ、何も言わぬままに押し寄せる命から逃げ続ける。
命の苗床となっている朽木を飛び越え、蔦の巻き付いた枝のトンネルをくぐり、若々しい木々から弾け飛ぶ種子のように「私」は駆け抜けていく。
唐突に途切れる森。湿り気を帯びた匂い。足へと跳ね上がる水を含んだ泥土。足を包みこむように沈む冷たい温度。見渡す限りの水を覆い隠すように漂う霧霞。
「私」は、初めて湖というものを見た。
波打つ水面。澄んだ水の中では無数の命が流れに身を任せている。
「私」は、恐る恐るながら水面を覗き込んだ。
湖面に揺れる鈍色の虚像。初めて見る自分の姿。目を、見張った。
鋭い牙、足の先端から生えくる爪。蛇腹状の首。膨らんだ胴体。歯車の鼓動。機械でできた体温の無い体。
機械仕掛けの一頭の竜が、目を丸くしながら限りなく澄み渡る湖から「私」を見つめ返していた。
「私」は、そこでようやく、自分が何者であるかを知ったのだ。
( 追いついた春の日 )
*
はじめ ちいさかった
もり は どんどん おおきく なって
よろこんで
うきうき してます。
わたし は この
きれいな せかい を
みて みたい ので
ごめん なさい
さようなら。
( ある子供の手記 2 )
*
あのひとの忘れ形見は、自由を求めて庇護の下から立ち去り、若き機械竜は再びひとりきりになっていた。
決して癒されることのない虚しさの中。目的を無くしてしまった若き機械竜は何を為すこともできないまま、ただ無情にも過ぎる季節を見つめていた。
それは、ある初夏の日のことだった。麗らかな日差しが森を包み込み、若々しく生い茂る葉の柔らかさを風が揺らしていた。
若者は、朽ちかけた巨大な機械の残骸の前にいた。
それはかつて大切なものを奪い去り、自分が命を摘み取った古き機械竜。命を奪い続けたその肌には苔が生し、恐怖の象徴であった牙には蔦が絡み祝福されるべき生命の温床となっている。かつての王者は、再生した森の優しい腕に包み込まれ、飲み込まれていた。
若者は、巨大な機械の前に座り込んでいた。仇であるはずなのに、不思議と巨大な機械に対する憎しみは起こらなかった。あるのはただ、同調。
何かを間違えたのだろうか。どこで間違えたのだろうか。間違えなければ幸せになれたのだろうか。
あなたも。
何かを間違えたのだろうか。どこで間違えたのだろうか。間違えなければ幸せになれたのだろうか。
あれほど強大で敵うはずもないと思っていた古き機械竜の亡骸を見下ろし、若き機械竜は問いかける。
答えは返らない。返ってきたのはただ、金属の軋む音だけ。
鈍い音をたてながら剥がれ、一直線に落ちていく破片。森へと蝕まれ朽ちゆく体が自重に耐えきれなくなったのだろう。古き竜の体は遂に崩壊を始めた。
崩れゆく、かつて竜であった金属。それは死だろうか、それとも再生だろうか。
辛うじて竜の形を保っていた金属塊は、まるで母の腕に自ら飛び込んでいくかのように次々と大地へと落ちていく。落ちた竜の欠片たちは、地へと還り木を支え、木の一部となり、いつか生命を、森を育むだろう。
――と、心の臓のあったであろう辺りから、転げ落ちる小さな箱。地へと落ちた箱はぼろぼろと崩れ去り、赤ん坊のように手足を縮こまらせ動かない、竜を模した小さな造形品が姿を現した。
そして時を刻みはじめる、歯車で作られた小さな鼓動。
座り込んでいた造形品は、小さな眼をゆっくりと開けると何度も瞬きをし、ぷるぷると頭を振る。
若き機械竜はその小さき命に顔を寄せる。目が合う。
怯えた眼を向けてくる玩具のような機械竜。ほんの一瞬だけ、何かが通じあったように感じた。
問いかけようとゆっくりと口を開く。弾け飛ぶように逃げ去っていく小さな竜。いや、自分が竜であることにすら気付いていない矮小な命。
ああ、あれは。
若き機械竜はようやく全てを悟った。そして何もかも全てが遅すぎたことを知った。
あれは――「私」だ。
( ドラゴノイドの見た絶望 )