虚空より吹きつけ、ただただ棒立ちになる木々の合間を駆け登る木枯らし。あたかも無くなっていった命を惜しんでいるかのごとき冷たさが、体を包む。
しかしそれでも、そんな感傷を嘲笑うかのように、泣きたくなるほどに赤い朝焼けは訪れる。まるで、死するものなど何も存在しないかのように。超然とした顔で。
「わたし」が生まれたのもちょうど、こんな暁がきれいな日だった。
地平線より漏れくる朱色の波の中、影のごとき黒さで呆然と立つ幹へと触れる。砂の山のようにあっさりと崩れ去る硬い木。
あれほど生い茂っていた葉も全て枯れてしまった。これでもう、かつて親愛なる友が教えてくれた思いを伝える方法すら、用いることはできない。
でも、それでいいのかもしれない。そうやって「わたし」は考える。どうせきっと、世界には「わたし」の他に誰もいないのだから。
天を仰ぐ。生という生が尽く死に絶えてしまったかのごとき、見渡す限りの静寂。消えかけた星の瞬きが聞こえるほどの静けさの中、呼吸をする者は「わたし」以外に存在しない。
皆、誰も彼も死んでいくのだろう。
愛した者の腕の中で自分の意志に殉じたあの古き機械のように。自分よりも小さき者を庇って死んだ、あの気高き竜のように。
背中が、ちくりと痛む。
「わたし」の意思とは関係なく、生まれ、蠢めく命。緩やかに押し寄せる死の足音。
いつか来る避けられない死を幻想しながら、「わたし」は独り、春を待ち続ける。
( ある憎しみのものがたり 1 )
*
老いた機械の前には蝶があった。
それは旧友との再会だった。それは止めることができなかった後悔だった。それは、老いた機械が侵してきた過ちそのものだった。
老いた機械は、意思もなく意識もなくただ風に遊ぶ蝶へと頭を垂れた。斬首台へと赴く罪人のように、従順に。どうか罰が早く訪れるようにと。
一体どこで間違えてしまったのか。それとも最初から全て決まっていたことなのか。老いた機械には分からない。
いつだってただ、必死に生きて、必死に守ろうとしてきただけだったのに。
老いた機械は最後の最後まで何もかもに気付くことのできなかった過去の自分を呪う。
誰かが断ち切らなくてはならない。
老いた機械は頭を上げた。蝶は、機械の姿など見えていないかのように関することなく飛び去ろうとしている。
――これでいい。機械は静かに笑う。
正義に燃える処刑人の足音が近付いてくる。
老いた機械へと飛び掛かる影。老いた機械より一回り小さいだけの巨大な影。大きな爪によって叩き伏せられ、鋭い牙が首元へと食らいつく。
主要な回路が断ち切られ、疑似的な生命活動が停止しようとしていても、老いた機械は、最後まで抵抗しなかった。
*
噛み砕いた感触が牙の下で弾け、組み敷き踏み潰した体からがくりと力が抜ける。ほんの僅か持ち上げられた頭がこちらを見る。ぼろぼろに砕かれた喉から、か細い声が漏れる。
命乞いか、それとも何かを伝えようとしているのか。哀れさすら感じられるその姿に、若い機械竜は力を緩めた。
地へと落ちる頭。首はぐたりと力を無くし、牙の合間から呻きにも似た言葉がこぼれ落ちる。
何か、そら恐ろしい予感が、若き機械竜の中を駆け巡った。
一歩後退る。足の下で砕かれた木々が責めるように突き刺さる。足元へと転がる古き機械の歯車は、徐々にその速さを無くしていく。
それは、死の瞬間だった。
古き機械は最後の力を振り絞ると、前の足を大地へと突き立て、体を引きずるようにしてゆっくりと前へと進み始める。
一歩。機械の進む先には何もない。あるのはただ、立ち枯れてしまった一本の大樹だけ。
一歩。這いずり、惨めな姿を晒しながら、それでも古き機械はその何の変哲もない樹木の足元へと縋りつこうと、必死に、前へ。
一歩。崩れ落ちる上体。大樹の根元へと倒れ込む古き機械。まるで母の傍らで眠りにつこうとする赤子のように、身をよじり、すり寄ろうとする。だが、物言わぬ大樹は決してその頭に触れてはくれない。
まるで、寄る辺を失った振り子のように、生命の立ち去った水面のように、ゆっくりと、ゆっくりと消えていく命の音。
古き機械の竜は首をもたげ、大樹が腕を伸ばす天を仰いだ。
乞うように。恋うように。
――それは、一瞬の夢。
老竜の鼻先。降り立つ一対の翅。
光の粉を散らしながら、ゆっくりと羽ばたく一匹の蝶。
諭すように。宥めるように。祈るように。
幾度も翅を開いては、閉じる。
老いた竜は穏やかに眼を閉じる。
歯車は止まる。支えを失い崩れ落ちる音。堅く冷たい体が地へとぶつかる音。そして、静寂。
こうして老いた竜は、金属塊となった。
若者は苦しんでいた。
愛した者の仇を討ったはずであるのに、何故か思考へと残るわだかまり。自分で自分の首を絞め続けているかのような圧迫感。それらを振り払うように、若き機械竜は一度、大きくないた。
朝へと変わりゆく空。消え失せていく星々の間へと、空しく響く声。
きっと誰にも届くことはないだろうことは、若者自身気付き始めていた。だが、叫ばずにはいられなかった。
誰も答える者のいない世界の中、一歩も動くことができないまま、どれだけの時間が経った頃だろうか。
不意に、何の前触れもなく、蝶は地面へと落ち、動かなくなった。
まるで、最初から命など宿っていなかったかのように、ただ気まぐれで吹いた風に舞っていただけのように。蝶は、黒く湿った土の上でその鮮やかな翅を晒していた。
若者は二つの屍を守るように、命を奪う鋭い牙の並んだ口をぼんやりと開け、座り込んでいた。
誰に止められることもなく進み続ける時の中。
朽ちていく翅を包み込むようにして、真っ白な一つの綿毛が形作られていく。若者は顔を寄せた。
若者の吐き出す白い息によって、僅かに揺れる細かく柔らかな毛。生まれたばかりのそれは、誰にも傷つけられないようにと庇い続ける若者の足元でゆっくりと生長していく。
――それは、幾度目かの暁の頃。
生い茂る綿のような毛を掻き分け、顔を出す小さな頭。
朝焼けを映したような朱色の大きな眼が、若者を真っ直ぐに見つめた。
ああ、と若者は息を吐いた。
若草色の鱗が、細く長い尾が、綿毛を掻き分けては外の世界へと生まれ来る。
はじめまして。若者は語りかける。生まれたばかりの小さな竜は首を傾げる。
守ろう。かつて自分が守れなかった分も、誰かが守れなかった分も、この子を。
若者は、小さな竜の鼻先へと顔を寄せ、強く誓った。
( ドラゴノイドの見た夢幻 )
*
はじまり は ふわふわ
とても ねむくて あたたかい です。
おそと は まっくろ
とても さむくて なに も ない です。
でも
きかい さん いっしょ だから
さみしく ない です。
( ある子供の手記 1 )
*
「私」は走っていた。
どこまで行っても命に出会うことのない、黒く冷たい道に八つ当たりするように。
「私」は逃げていた。
巨大な機械から、死の恐怖から、そして何よりも大好きだった、ただひとりの友人を見捨ててしまったという過去から。
長い、長い朝焼けは終わり、日は徐々に頭上へと昇る。逃げ続ける「私」を捕まえようとするかのように長く伸びていた木々の影は、その腕を収めていく。
「私」は、ほんの少しだけ救われた気分になって立ち止まった。
生命無き森の残骸の真ん中。誰も救ってくれるひともなく、誰も責めたてるひともいない。
凍えるほど冷たかった大気は緩やかに熱を取り戻しつつあったが、だからといって一度失われた命が戻ってくるはずもない。
相も変わらず木々は一枚の葉のない枝々を天に向け続けているし、「私」の隣にあの優しい微笑みは戻ってはこない。
「私」はたった一人、足元に続く小さな道をとぼとぼと辿り始めた。
貼り付けたかのように続いていく森。木々の合間を空しく吹き抜ける風。進んでも進んでも、景色に大きな変化はない。
命の無い道。命の無い木々。草は根まで枯れ果て、苔は凍りつき、死に絶えてしまった。
例えようのない後悔に苛まれながら、「私」はひたすらに前へと進むほかなかった。「私」はこの道以外に道を知らなかった。進んでいるのか、それとも引き返しているのかは分からない。ひょっとすると、同じ道を繰り返し通っているのかもしれない。
それでも、「私」は進み続けた。
やがて、ある小さな広場へと「私」は辿り着いた。
低い天井。複雑に絡み合う、命を失った枝。朽ち、倒れ、幾重にも折り重なることによって形作られたそれはまるで、何かを守り育てる籠のように、天を覆っていた。
籠の合間。懐かしさすら感じる穏やかな木漏れ日。霞がかった小さなその場所には、差し込む光が帯のように揺れていた。
広場の中心には、鮮やかな色彩を輝かせて雄々しくただ一本立つ、細く小さな、何かがあった。
「私」は一歩、歩み寄る。
たったそれだけの行動で空気は震え、小さく揺れる緑。
葉へと溜まっていた朝露は弾け、茶色くくすんだその足元へと吸い込まれる。
それは、新たな芽だった。細く、か弱く、触れただけで消えてしまいそうな小さな芽。しかしそれ以上にどこまでも正しく、力強く、堂々と、その芽は立っていた。
あのひとの生まれ変わりだ。「私」は何故か確信していた。そして、恐怖していた。
吸い込まれそうな、どこまでも深い緑色。
この森の「私」以外のただ一つの生命は、堂々と生まれ、生きていた。「私」なんかのために死ぬべきひとではなかった。優しいひとだった。大切なひとだった。
「私」は憎んだ。あのひとを奪ったあの恐ろしい機械を。
いつかあの機械を倒して復讐できれば、許されるのか。物言わぬ命に向かって「私」は問いかける。
不意に吹いた風。嘲笑うように新芽は揺れ、「私」を指差したように感じた。
「私」は、確信した。
「私」は許されることはない。絶対に。「私」の命が終わるまでは。
「私」は逃げ出した。
生きていたもの全てから。生きているもの全てから。恐ろしいもの全てから。
( ある冬の日の追戒 )