目を開いた時、最初に見えたのは崩れ落ちる廃墟の残骸だった。
古くから生長してきたであろう太い樹の海の只中に埋もれるようにして、その建造物は座り込んでいた。
誰がどうやって建てたものなのかも、何のために建てたものなのかも分からない。上るための梯子も見えなければ、中へと入る門も見当たらない。
或いは、初めは存在していたのかもしれないが、暴力的なまでの時の積み重ねによる崩壊の始まった今となっては、次々と落下を続ける金属片の雨に埋もれてしまい、その確認は叶わない。
季節は葉の青々と生い茂る初夏。
照りつける陽光の零れ落ちるこの広場で、「私」は初めて、竜を見たのだ。
それは初め、廃墟の一部であるように思えた。それが明確な何らかの意思を持ち、顔をこちらへ近付けてくるまで、「私」はそれが生きているということに気付けなかった。それほどまでに、竜は巨大であった。
竜の体は機械でできていた。
蛇腹状に長く伸びる首に繋がる、膨らんだ胴体。その内部では無数の歯車たちが緩やかに時を刻む。太い首の先端、鋭い角の生えた頭部が嫌な音を立てて軋みながらゆっくりと動き、竜を見上げたまま硬直する「私」の姿を真正面から捉えた。
食べられてしまう。
全身には隅から隅まで危険信号が走り、身体はその場から逃げ出そうとしていたが、固まった思考は驚くほど冷静に、目の前の竜を観察していた。
泣いている。
表情のない金属製の無機質な竜の顔を、動くことのない瞳を見つめながら、そんな根拠のない直感が思考に割り込んできたことに「私」は、気付く。
目の前へと伸びてきた首。はっきりと目が合う。
何かを言おうとするかのように竜が口を開きかけたその時、曖昧な思考は危険信号によって上書きされ、「私」は弾け飛ぶようにその場から逃げ去っていた。
( ある初夏の追憶 )
*
とても ふるい
きかい の りゅう は
とても かなしい から
もり と いっしょ に
なろう と きめて
うごく こと を やめました。
もり は どんどん おおきく なって
いつか りゅう を のみこむ でしょう。
( ある子供の手記 3 )
*
その若者は走っていた。
足から突き出た大きな爪が小枝の落ちる道をぱきぱきと踏みしめ、爬虫類を模したであろう頭部は優しい光に満ち溢れた世界を観察していた。
その若者は機械だった。加えて言うならば竜だった。精一杯手を伸ばしても辺り一面にそびえたつ木々の背丈の半分ほどにしか届かないほどの、小さく若い竜だ。
生まれ変わったような心持ちで、若い竜は世界を駆け回っていた。
誰かがかつて通った薄く湿った獣道を、頭の前に張り出した枝葉を突き破りながら進む。風に合わせて揺れる木漏れ日が次々と足早に若い竜の体の上を通り過ぎ、葉の上に溜まっていた露が、竜の体に触れては弾けてきらめく。
まるで世界全てに祝福されているかのような光景に、若い竜は地面へと転がりながら喜びを噛みしめた。
不意に駆け抜けた旋風。
青々と繁っていた葉が数枚巻き上げられ、はらはらと落ちてくる。目を蔽いたくなるほど眩い光を背にしながら舞い降りてくるその緑色を前にして、若い竜は息を飲んだ。
風のようにするりと抜けてしまう、捉えようのない動き。淡い緑色。長く細い尾。優しい眼。
かつての友人の面影を持つ葉はそっと若者の鼻先に下りる。なだめるように落とされた口づけ。触れただけで壊れてしまいそうなはかない微笑が若者の目には確かに映っていた。
若者は口を開く。
たくさん、伝えたいことがあるんだ。
君に伝えられなかったことが、たくさん。
だが、それを音にする前に、その姿は夢幻のごとく掻き消えた。
残されたのは、何の意思も持たない、自分の力で動くことも、笑うことも怒ることもできない、ただの一枚の葉だけ。
若い竜は鋭く大きな牙を剥くと、苛立ちをぶつけるようにその葉を噛みしめた。
苦い、湿った味がした。
( ドラゴノイドの見た白昼夢 )
*
初めて竜に出会ってからまだそれほど経たない頃、瑞々しく若葉の繁っていた世界に少し乾いた空気が満ちはじめたある夕暮れ、「私」はその竜に出会った。
美しい竜だった。沈みかけた朱色の光を受け、波状に幾重にも連なる若草色の鱗が、仄かに朱に染まっていた。
まるで祈るように長くしなやかな首を擡げる。背に畳まれていた翅が広げられ、その軌跡を辿るように光の粒子が舞う。
竜は小さく息を吸い込むと、空に向かって一気に吐き出した。
声。夜へと変わりゆく世界を切り裂き、やがて訪れる闇の中へと溶け込んでいく、一つの声。
それはもしかすると歌、あるいは叫び。
姿の見えない感情の余韻を受け取り、樹海は震え、さざめきあう。同調とも同情ともつかない残響。遥か昔に意思を失ったはずの無数の意識の集合体。懐かしんでいるような溜息のごとく。木々は音の間に揺れては、あるべき場所へと返っていく。
美しい、ただただ美しい竜だった。
くぼんだ眼には、紅玉のごときどこまでも深い色合いが嵌まっていた。しなやかに伸びる首筋に巻きつくような形の艶やかな鱗が、昇りかけた月の光を五色に映していた。
「私」は知らずのうちにきれいだ≠ニ呟いていた。
ぴくりと動く尾。怯えをたたえた瞳が、「私」へと向けられる。緩やかに宙に靡いていた翅も緊張しているのか細かく震えており、「私」が少しでも迂闊な動きを起こそうものなら、どこか知らない場所へと飛び去ってしまうだろうことを予期させた。
「私」は音を立てないようにゆっくりと一歩、緑色のその竜の前へと歩み出た。
とても、きれいですね。
そうやって言い終わった後に、竜に言葉が通じるはずがないと「私」は思い至った。そして、「私」が言葉を発したことで、きっとこの臆病そうな竜は驚いて逃げ去ってしまうだろうということにも。
しかし、その竜は逃げなかった。
それどころか、一度、驚いたように目を見開くと、おずおずと遥かに低い位置にある「私」の顔へと鼻先を寄せてきた。
そのはね、とてもきれいです。
「私」はゆっくりとそう伝えた。
竜は泣きそうな顔で笑っているように見えた。
それが、「私」と、「私」の一番の友人の出会いだった。
( ある晩夏の追想 )