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メシアナンバー1024




--Last UP 2010/07/23

  • 0.鉄砂の海にて

  • 1.私 普通。






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    0.鉄砂の海にて

     むかしむかし、世界はたくさんの道に分かれ、破裂しそうになっていました。
     一つの世界が二つになり、二つの世界が四つになり、重なり合った世界のシャボン玉は許容量を超えようとしていました。
     困り果てた神様は選択者を選び出し、世界の運命を決めてもらうことにしました。
     世界を選択し、世界を救う存在。救世主(メシア)として――



    「こうして救世主(メシア)は生まれましたとさ。めでたしめでたし」
     平坦な声は、そうやって話を締めくくった。
     小鳥が囀っているかのような可愛らしいソプラノ。しかし、その声には全く感情は込められておらず、無愛想な少女が手にした書類を淡々と読み上げている姿を連想させる。
     だがその声の主は、狭く薄暗い廊下には見当たらない。
     その廊下に存在するのは、一人。黒髪の少女――イチだけだった。
    「イチ、聞いていますか?」
     問いかけには答えず、ただその声の存在を否定するかのように、イチはぶんぶんと首を振った。
     その度にイチの黒髪に滴るアルコール臭を放つ赤色の液体が辺りに飛び散る。彼女のセーラー服にはまだら模様ができてしまっていた。
     石造りの壁に背中を預けて覗き見ると、暗く伸びる廊下の突き当たりには錆びた扉。
     扉に至る道に誰もいないことを確認すると、イチは扉に駆け寄りドアノブを掴んで、一息に開け放った。
     ごう、と風が吹き込み、反射的に瞼が閉じる。
     次に目を開いたとき眼前に現れた光景に、イチは一切の行動を停止し、間抜けな声を上げざるをえなかった。
    「……は、ぁ?」
     音が無い。人が無い。
     喧騒も街並もネオン煌めくビル群も何も無い。それどころか植物の緑や水の青も一切見当たらない。
     イチの眼前には、藍色の空にぽっかりと浮かぶ巨大な月と、その月光を浴びて銀色に煌めくただただ広大な砂の海だけが広がっていた。
    「というわけで、イチ」
     口をぽかんと開けたまま固まるイチに、沈黙を続けていた姿無き少女は静かに宣告した。


    「あなたには今から世界を救っていただきます」


     イチは絶望するように乾ききった地面に膝をついた。風が吹き付け、膝頭が砂に埋まっていく。
    「そんな……」
     か細い声が漏れる。ありえない事態への恐怖や絶望からのものなのか、その声は情けなく震えている。
    「そんなのって……」
     うなだれ、肩を落とした。
     砂を握り締めた。拳がぷるぷると震えている。
     不意にイチはがばっと顔を上げ、天高くに鎮座する巨大な満月を睨みつけた。
    「……信じられるかぁぁあああああああああああああああああああああああああ!!!」
     行き場のない苛立ちのこもった少女の咆哮は、人の気配の全くない夜の砂漠に、虚しく響き渡った。


     どうしてこんなことになってしまったのだろうかといった疑問やら後悔やらを含ませながら。



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    1.私 普通。

     私は普通だ。
     普通の女子高生だ。
     どれくらい普通かというと、そりゃあもう超普通だ。
    「あのぉ、三高の黒河内さん、ですよねーぇ?」
     どこからともなく現れたのは、三人の女子高生。脱色された髪や厚く塗り固められた化粧顔から、ミーハーな雰囲気が滲み出ている。
     彼女たちが持つ独特の空気に少し圧倒されていると、三対のぎらぎらと期待のこもった熱い眼差しが、私を見据えた。
     この時点でもう既に嫌な予感がする。私のごく一般的で普通並に鋭い女の勘が警鐘を鳴らしている。
     だがここで逃げるわけにもいかない。それは普通の行動じゃない。
     街中で見知らぬ人間に話し掛けられたとき、私のような典型的に普通の人間がとるべき普通の行動はこうだ。
     その1。少し面倒に思いながらも、見知らぬ人の質問に丁寧に善意をもって答える。
     その2。相手がお礼を言うので、「いえいえ」と謙虚に対応する。
     その3。その場を立ち去る。
     平均的な普通の日本人である私は、以上のような行動をとるべきだ。
     よって私は、渋々ながらもこくりと頷いて答えた。
     すると女子高生達はキャーと黄色い歓声を上げ、騒ぎ始めた。通行人がじろじろとこちらを見ている。
     危うく舌打ちしかけた。想定されうるパターンの中で最も面倒かつ不愉快な反応だ。
     私の眉間に深く刻まれた皺に気付いていない彼女達は、目を輝かせながら、
    「あの"アイ"の妹さんなんですよね!」
    「違います」
     即答。秒数にしてコンマ数秒。ミーハー女子高生ズは何を言われたのか理解できなかったのか、目を丸くしている。
     優しい私は思考停止中の哀れな彼女達にも分かるように、ゆっくり、言い聞かせるように、説明してやった。
    「私は、"アイ"なんて女性とは、全然、全く、根本的に、関係ないですし、今後お近づきになる予定もありません! では失礼しますっ!!」
     そう言い捨て、ぽかんとした顔をしたままのミーハー女子高生たちを残したまま、私はつかつかと歩みを進め始めた。
     だが奇異の視線は止むことがない。例えば買い物袋を下げたままのオバサマ方。例えば制服を着た学生たち。あるいは通りすがりのお姉様方。
     皆、私を横目で見ながらこそこそと噂しあっている。
     失礼な失敬な。
     口の中で毒づきながら、早急にこの場を離れるべく逃走スピードを上げる。
     だが走ることはできない。余計に注目を集めることになりかねない。
     歩かず走らず。競歩の選手さながらの速さで、私は彼らの視界の中から立ち去った。

       *

     自宅のある団地密集地へと足を踏み入れる。
     頭はまだ熱い。苛々が治まらない。ああくそムカつく腹立たしい。
     踵を踏み鳴らし、立ち止まる。
     私は、普通だ。いたって普通だ。限りなく平均値に近い普通だ。
     普通だ。普通だ。普通だっ。
     叫びたい。叫んでしまいたい。
    「私はっ、普通だあああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
     はたと気付く。口を押さえる。
     しまった。私としたことが。常識から外れた行動をしてしまった。
     慌てて辺りを見回すも、塀の上でくつろいでいた猫が、何事かと目を丸くして私を見つめているだけだった。
     安堵の息を吐く。周囲に誰の目もなかったことは幸いだった。
     私は普通だ。
     それは動かしようもない事実だが、周囲の目は恐ろしい。すぐに私と、あの異常で奇妙な生物を同一視しようとする。
     あれが同じ親から生まれた身内だということでさえ認めるのは嫌なのに、私まであれと同じ非常識な存在だと思われるなんて耐えられない。
     だからこそ忘れないようにしなければ。
     私は普通だ。普通の皮を被った普通だ。普通だ普通だ。
     アパートの階段を登りながら、繰り返し唱える。
     普通。普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通。
     普通!
     ずかずかと足音も荒く歩き、自宅の前へと辿り着く。
     何の変哲もない自宅。何の変哲もないアパートのドア。同じ建物の中に多く並ぶ同じようなドアの中に埋もれてしまう、何の個性もない家。
     普通だ。これこそが普通だ。
     息を吸って、吐く。深呼吸、深呼吸。
     忘れよう。今日は運が悪かったんだ。こんな普通じゃないこと、普通はそうそうあり得ない。それに、あれだけはっきりと否定しておけば、もうあの人達は私に話しかけようだなんて思わないだろう。
     小さく息を吐くと、目の前の鍵穴に鞄のサブポケットから取り出した鍵を差し込む。
     だが、どれだけ鍵を回しても解錠音が聞こえない。
     不審に思い、ドアノブを回してみる。
     手ごたえが軽い。
     鍵が、開いている。
     ヤバイヤバイヤバイ。虫の知らせがフル稼動。面倒センサーが振り切れそうだ。
     開けたくない関わりたくない。出来ることならこのドアを開けずにすむならどれだけいいか。
     からからになった喉を潤そうと、唾をごくりと飲み込む。黒光りする台所昆虫とサシで向かい合っているような緊張感。
     私は履いていたローファーを片方脱いで臨戦体勢に入った。
     どどどっと接近してくる足音。誰かがドアの向こう側で、ドアノブを掴み、ひねり、開け放った。
    「ヒメーっ! おっかえりぃーん!!」
     飛来、再来。
     女性が大きく腕を広げて、こちらに向かってくる。
     私は手にしたローファーを大きく振りかぶると、思いっきり力一杯、彼女の顔面にたたき付けた。
    「ぷぎゃぁ!」
     クリティカルヒット。
     奇妙な鳴き声を上げて地面に突っ伏した不法侵入者を見下ろしながら、限りなく冷めた声色で私は尋ねる。
    「なんでいるの、アンタ」
    「愛する妹の家に姉がいて何が悪いって言うの?」
     アイ。本名、黒河内 愛。
     現役モデルにして、女優業もこなし数々のドラマで主演を張ってきたスーパーウーマン。
     潜在的に決定的に超絶的に超普通なこの私を、非普通たらしめようとしているのが彼女の存在だ。 
     そう。彼女は普通じゃない。私の知る限り、最も普通という言葉が似合わない生物だ。
     蛍光色で二色に染め分けられた髪は、彼女のトレードマーク。一度見たら二度と忘れないことだろう。
     そして服装。彼女の服装はまさに奇奇怪怪。
     胸元と背中は大きくはだけており、その他の部分の肌を隠すように繋ぎ合わせてあるぼろぼろの布には気持ち悪いほど原色が多用されている。一方、下半身は黒の網タイツで輪郭を強調しており、腰には謎の鳥の羽がこれでもかというほど巻いてある。
     これで部屋着なのだから、本当に信じられない。
     どうして時代は彼女に追いついてしまったのだろうか。そのことが悔やまれてならない。いや、マジで。
     おかげ様で、彼女は自身のセンスに自信を持ち、華美(ゴージャス)かつ奇抜(クレイジー)な道を突っ走るようになってしまったのだから。
     潰れたままの彼女を冷ややかな目で見下ろしていると、彼女はほこりを払って立ち上がり、がばっと。
    「ヒメーヒメー。私の可愛いヒメぇー」
     私に抱き着いてきた。
     誰がお前の、だ。いつ私はお前のものになったよ、ええ?
     ちょうど猫にするように首の後ろを掴んでべりっと引きはがすと、私は彼女を物理的に一蹴した。
    「……とりあえず、ヒメヒメ連呼するなこの馬鹿がっ!」
     ヒメ。一愛(ひめ)。
     黒河内 一愛。非常に遺憾ながら、私の戸籍上の正しい本名だ。
     私はこの名前が嫌いだ。とてつもなく嫌いだ。この名前のせいで、私の華麗なる普通ライフは多大な被害を被ってきた。
     なんでこれでヒメって読むんだ。なんで二女なのに「一」の「愛」なんだ。なんで二女なのに長女の名前が入ってるんだ。なんでだよ。
     普通じゃない、これは普通じゃない。
     母親のネーミングセンスを疑いたい。全力で。
    「えー。可愛い名前だと思うけどなぁー?」
    「うっさい」
    「可愛いよー? 可愛い可愛い可愛い! だって私のヒメだもん!」
    「そういう問題じゃない」
    「だってヒメー」
    「ヒメって呼ぶな」
    「だって。だってさー」
    「だってじゃない」
    「ヒメ以外にヒメのことどうやって呼べばいいっていうのさー」
    「まずヒメって呼ぶな」
    「……」
    「……」
    「……ヒメー?」
    「……」
    「ヒぃーメぇー」
    「……」
    「ヒメヒメヒメヒメヒメヒメヒメヒメヒメヒメヒメヒメヒメヒメヒメ……」
     ぷつっ、と。我慢とか許容心とかいった類の何かが切れる音。
    「あーもう、勝手にすればいいでしょ!」
    「じゃあ、勝手にしまーす。勝手にさせていただきまーす」
     そう言い放つと彼女はどかっとその場に座り込んだ。籠城作戦気取りか、いいだろう。
     私は何も言わないまま、彼女の両手をがしっと掴む。彼女の目が希望のようなもので輝く。私はにっこりと笑いかける。
    「ふふふふふ。……出・て・けー?」
     私はほほえみを崩さないまま、ドアの外へと彼女の体を放り出しそのままドアを閉め鍵をかけた。
    「え、ヒメー! 開けてよ、開けてー!!」
     どんどんどん。
    「お願い開けてよー! 今日、マネージャーに内緒で来ちゃったんだからー!! お仕事サボっちゃってんだよ、見つかったら捕まっちゃうでしょ開けてよー!!」
     どんどんどんどん。
     知ったことか、この馬鹿。
     そんな私の思いを無視して、ドアを叩く音が鳴り響く。
     ああ、帰れ帰れ。さっさと諦めて帰っちゃえ。
    「叫ぶぞこらー! 騒いじゃうぞこらー!! 近所の人に迷惑かけるぞこらー!!」
     近所の人。迷惑。
     その単語に私の眉が跳ね上がる。
    「突進するぞー! ぶち破るぞー!! いくよー! いっちゃうよー!! せーのぉっ……」
    「やめろ」
    「うひゃっ」
     大声で大々的に犯行予告された凶行を阻止するため、私は素早く戸を開けた。
     車は急には止まれない、馬鹿も急には止まれない。そのまま勢いよく倒れ込んでくる。
     そんな彼女を私はもちろん受け止めるわけもなく、彼女は再び地面に顔面を強打することとなった。
    「あぶっ」
    「ざまぁみさらせ」
    「もうっ、アタシを何だと思ってるのーっ!」
     私はやれやれと大袈裟に肩をすくめ、遠い目をしながらぼそりと呟くことで答えてみた。
    「ゴキコロリ、どこにやったかなぁ……」
    「ええっ!?」
     本気でショックを受けている様子の彼女に対して、私は、ふうと嘆息してみせる。
    「ひっどーい! それが実の姉に対する態度なのー!?」
    「へー、アンタ私の姉だったんだー。はじめて知ったわ」
    「ヒメの意地悪ぅー!!」
     彼女は揃えた指で口元を押さえると、よよよ、と嘘泣きを始めた。
    「ああ、天国のママ上……。ヒメが反抗期のようです」
     母さんを勝手に殺すな。母さんだったら田舎で元気にご存命だ。
    「折角私が、忙しい仕事の合間を縫って、愛しい妹のもとによく顔を出してあげてるっていうのに……」
    「そんなこと頼んだ覚えはないけどね?」
    「大丈夫大丈夫。私も頼まれた覚えはないから!」
    「大丈夫な要素どこから連れて来たんだよ、返してきなさい元の場所に」
     ビシッとドアの外を指さす。意味はゴーバックホーム。さっさと帰れ。
    「いやっ! この子はもううちの子なのっ! 絶対にはなすもんですかっ」
     便乗。悪乗り。
     謎の小芝居が始まってしまった。
     そんな彼女をとりあえず軽く無視しながら、開きっぱなしだったドアを静かに閉める。
     被害拡大防止。これ以上ご近所の皆様に迷惑をかけるわけにはいかない。まぁ、壁が薄いので、さほどの効果は見込めないのだけれど。
    「あーっ無視ぃー!? 無視はいけないんだぞイジメの一種なんだぞー!!」
     お前は何歳だ。いい年した大人が、小学生みたいによくもまぁ。
     座り込む彼女の前に仁王立ち、真正面から睨めつける。
    「で? ……一体何の用?」
    「えー? 用なんてないけどー?」
    「じゃあなんで来たんだアンタはこんにゃろこんにゃろ」
    「やーん」
     頭を拳でぐりぐりとやると、彼女は気持ち悪い声をあげて、
    「んーだって、私はヒメちゃんのこと大好きだしぃ?」
    「そうか。私はアンタが大嫌いだ」
    「えー。なんでーなんでぇー」
    「こんな! 変人が! 身内にいるなんて知れたら! 恥ずかしいでしょうがっ!!」
    「またまたーぁ。ヒメだって昔っから大概な変人の癖にーぃ」
     ああ言えばこう言う。またこれだ。
     普通に健全な普通人を目指すこの私を捕まえて、変人とは何事か。
     こちとら昔から普通を目指して努力して努力して頑張ってきたっていうのに。
     昔から。そう、そもそも私の普通であるための普通による普通な歴史の始まりは小学校時代に遡る。
     小学生のとき。
     私は、既に変人としての頭角を現していたこの姉が大嫌いだった。
     とにもかくにも姉のようにだけはなりたくない。私は常々そう思っていた。
     だから、将来の夢に、私は「姉以外」と書いた。
     大抵の人間には理解できないと言いたげな顔をされたが、彼らが姉がどんな人間かを知っている者からは、同情の視線を向けられた。
     中学生のとき。
     姉の異常度は年々進化を続けていた。元から私には理解できない世界だったが、それに輪をかけて奇妙な遠い世界へ行ってしまった。
     彼女は、流行の最先端を行くどころか、常に最先端のその先を全力で突っ走り、世間が追いついてくるのを待つこともしないような女になっていた。
     そんな彼女をもう既に当時の私は、姉としてはおろか、同じ人間としてすら認めていなかった。
     彼女から少しでも遠ざかろうと、私は普通であるための努力を惜しまなかった。
     何をするにも人並み普通に。だらけずたゆまず、いきすぎずやりすぎず。適度に流行に乗り、適度に自分を貫き。固定の友人を作らず、平均的に普通な友人たちの間をふらふらと普通に彷徨い。厄介事を避けるために自分から話しかけるようなことはせず、万が一誰かに話しかけられでもしたら当たり障りなく答え。テストでは平均点を予測し、その平均点ぴったりちょうどを取ることに心血を注いだ。
     私は、普通であり平凡であり、最終的には正しい道を進んできたはずだ。
     なのにそれなのに。根本的に根源的に普通を好み、生まれつき奇抜で奇抜なものを好む姉とは全く違うこの私の、一体どこが変人だって言うのか。
    「そういうところが変人なんだとお姉ちゃんは思うよー?」
    「はあ?」
     訳が分からず眉をひそめ首をかしげる。彼女はそんな私を見て、にやにやにやと笑っている。とても殴り飛ばしたい顔だ。
    「ああもうそんな鈍いところも愛しいなぁ抱きしめたげるよプレゼントフォーユーっ!」
    「あついうざい離れろこら」
     もういい、コレと話すこと自体が時間の無駄だ。
     纏わりついてくる変人の代名詞を蹴り飛ばして、ベランダに干しておいた洗濯物を取りに向かう。
    「待ってぇ、私を置いていかないでぇ!」
     私はその不可思議で不愉快な生き物を視界に入れないように最新の注意を払いながら、アルミサッシを後ろ手でぴしゃりと閉めた。


    「まったくアイツはぁ……」
     理解できない。あの姉のような生き物は一体何を考えてどんな行動原理で行動しているのか。
     どれほど普通の仲の良い姉妹であったとしても、あそこまでは図々しい真似はしないだろうに。
     口の中でぶつぶつと悪態をつきながら、ぶら下がった洗濯物を回収していく。次々とかごに投げ捨てる。
     鳩が一羽、電線の上でふくれている。雀が二羽、じゃれあいながら飛び去っていく。
     風が、団地の合間に植えられた植木の葉を撫で、さらさらと流れていく。洗濯物が揺れる。
     普通だ。なのに、不思議と苛々は晴れない。
     普通だからこそ、腹が立つ。私の普通の中に、彼女の存在が組み込まれつつあることに腹が立つ。
     私の生活が普通である限り、私の毎日がこのまま平凡かつ平和のまま変わらない限り、どうせ彼女は私の日常に介入してくる。
     だったら、いっそ。
     ふっと、私らしくもない普通じゃない突拍子もない発想が頭をかすめた。

     いっそのこと、何か面白いことでもあればいいのに。
     彼女好みの不思議で非日常で目茶苦茶でファンタスティックな出来事が。そうしたら、彼女の興味もそっちにいって、私は静かに平和に普通に暮らせるようになるだろうに。

    「……けっ!」
     馬っ鹿馬鹿しい。
     自分で思ったことではあるが、反吐が出る。
     普通こそ一番。普通、イズ、ベスト。普通は素晴らしいってのに。
     最後の一枚を籠に投げ込み、んーっと伸びをし、背後のベランダに背中を預ける。
     そうだ。部屋の中に戻ったら、適当にあの面倒なアイツをあしらって、普通に夕食の準備をしよう。そうしよう。
     そうして脱力した私の体は、背後にあるはずのベランダ、鉄製の手すりにもたれかかって――いなかった。
    「……あ?」
     ない。手すりが。支えが。ない。
     傾き、落ちる。どこに。どこへ。
     分からない。頭が回らない。何が起こっているのかも。何をすべきなのかも。
     ゆっくりと進んでいく時間の中で、私の視界は泣き出しそうな灰色の空で満たされる。
     と思えば、私を包囲するようにそびえ立つ、コンクリートのビルが、目に入り。
     どんどん。空は。


     遠く、遠く、狭く――



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