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歩く墓はUFOの夢を見るか


歩く墓。天気とされる天使。通りすがりの一般人、天使予報士、そしてUFOを探す少女。
取るに足りないそれぞれが関わった時、奇妙なおはなしは始まった。


--Last UP 2011/09/27:第二話「とある天使予報士による観測」4

  • 第一話「歩く墓標と殺人教唆」  - - - -

  • 第二話「とある天使予報士による観測」  - - -





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    第一話「歩く墓標と殺人教唆」 1

     歴史を伝える石畳。古きを重んじる街並み。
     そして――のどかな空を切り裂いて、街の中心にそびえ立つ、場違いなほど大きな大きな電波塔。

    「うわぁ、やっちゃった」
     
     することが何も思いつかなかったのでUFOでも降ってこいとか思いながら空をぼんやりと見ていると、突然やる気のなさそうな声が降ってきた。視線を向けると汚いオジサンがいた。ぼさぼさの白髪交じりの髪に、服が可哀想に思えてくる程に着崩されたスーツ。あごにへばりつく無精ひげがちくちく痛そうだ。
    「うーん何と言うか申し訳ない。オジサンが悪かったよ」
    「……ううん、気にしてないから」
     そのオジサンがあまりにも申し訳なさそうな顔で、それでも興味なさそうに平坦な声でそう言うものだから、私は自然と彼を許す返事をしていた。彼が何を謝っているのかは知らないけれど、何故かとても小さなことで謝っているような気がしたのだ。
    「マジすまん。その件については本当に悪かったと思ってるよマジで」
    「だから別に……気にしてないから……」
    「いや、でもなぁ。流石にこれはマズいんだよなぁ」
     言葉ではそう言いながらも、その口調はやはりどこか他人事のようだ。オジサンはうーんと唸りながら片手でぼりぼりと頭を掻いた。白いフケがぱらぱらと飛び散る。とても不潔だ。
    「あーあー本当にごめんなー。あんまりにもお嬢ちゃんがふわふわしてるもんだから、ついうっかりさくっと刺しちゃってさー」
     さらりと冗談のように、オジサンはそう言った。
     見ると、私の下腹部に巨大な刃が突き刺さっている。その刃の柄を握っているのはオジサンだ。言われてみればお腹から背中にかけて痛いような気もする。
     私のように今頃気付いたのだろうか。すぐそばを通りがかった女の人が絹を裂くような声を上げて、ばたばたと走り去っていった。それを引き金にしたように、叫び声の波紋はあっという間に広がり、私たちの周りに人間で円状に壁ができあがった。ざわめきや怒号や悲鳴に混じって「警察」とか「医者を」とか、そんな単語が聞こえてくる。
    「うわぁまずいよ、これはまずいってぇー」
     それでもやっぱりオジサンは一人、他人事だ。オジサンは顎に指を当ててしばらくの間うーんと唸っていたが、不意に、名案を思いついたとでも言いたげに、大袈裟に指を弾いた。
    「あ、そーうだ、お嬢ちゃん。俺に埋葬されてみないか?」
    「埋葬?」
    「そうそう埋葬だよ埋葬。ココだけの話、オジサンな、お墓やってるんだ」
    「葬儀屋さん?」
    「んー、まぁまぁそんなとこだな」
    「へぇ」
    「ほら生前葬って今流行ってんじゃん? そのノリだよ、そのノリ。お嬢ちゃんはとても不運なことに今俺にさくっとやられちまったわけだがな、一度お墓に入っておきゃあ、今死ぬのも後で死ぬのもおんなじになるだろ? ん、ならない? そんなことないさ! 勿論お代は要らないぜ! ほら、レッツ埋葬!」
     どうやら私は死ぬようで。しかもお墓まで作ってくれるとオジサンが言うので、どうせ死ぬなら地縛霊になるよりはうまく天国に行った方がいいかなとか、ただで貰えるものは貰っておかないととか思い、私は素直にうなずいた。
    「……うん、わかった」
    「ああ、マジで? 話の分かる子で助かるわぁ。じゃあオジサンと一緒に行こうな!」
     オジサンの手が親しげに私の肩に乗せられる。その途端。景色が、快活に笑うオジサンが、誰かがお巡りさんを呼ぶ声が、UFOのいない青い空が、ぐるりと回転して、そのまま消えた。




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    第一話「歩く墓標と殺人教唆」 2

    「今日の天気は晴れのち曇り。ところにより、激しく「天使」が降るでしょう。刺激さえしなければ人に危害を加えることはありえませんが、皆さん、戸締りはしっかりして、夜間の外出は控えるようにしましょう――」
    「ほんまかわえーなぁかわえーなぁ、ちゅーしたいわー。わっ、今、わいに向かって手ぇ振らんかった? 手ぇ振らんかった? かわえーなぁかわえーなぁー……もぉ我慢できひん! うけとってくれ、わいの愛をー!」
     図々しい居候がブラウン管の向こう側の天使予報士に熱烈な求愛行動を行うのを冷めた目で見ながら、ジョシュアは薄いコーヒーを不味そうにすすった。
     「天使」が天候の一種として公的に認められたのはつい十年ほど前のこと、その事実が万人に浸透したのはさらに数年後のことだ。今や天気予報ならぬ「天使」予報は、朝のニュースになくてはならないものになっている。
    「ジョシュもそー思うやろ?」
    「あ?」
    「だからノエルちゃんやてノエルちゃんー。朝ニュースの妖精、歌って踊れるわいの癒しの天使、お天気お姉さんのノエル=スノウちゃんやぁ」
    「あー、興味ない」
     どこか似非に聞こえる訛りのついた喋り方をする居候との会話をジョシュアはにべもなくぶった切り、こいつと同居生活を始めてからずっと抱き続けている疑問を投げかけた。
    「大体、お前誰だっけ」
    「ちょー、冗談はよしこさんやでー。わいとジョシュはこーんなちび助の頃からの大親友やないかぁ。いやぁ、家なし職なし金もなしの三拍子揃ったわいを助けてくれるなんて、ほんまに持つべきものは友達やわぁ」
     正確には居候を許した覚えなんてない。ジョシュアの旧友だと言い張って無理矢理押し掛けてきた、の間違いだ。正直なところ、ジョシュアはこの同居人の名前を思い出せないでいた。多分おそらく、俗に言うストリートチルドレンをやってたころの仲間だとは思うのだが。
    「その日暮らしのガキ時代に会った奴全員いちいち覚えてるわけないだろ?」
    「えー、わいは覚えてたやんー」
    「お前、友達少なかったんじゃないか?」
    「ジョシュ黙れやぁ! ほんまにおまえはデリカシーってもんが昔から……」
    「そうかー友達少なかったのかー。ははっ、目頭が熱くなるなぁ」
    「うるさいで、ジョシュ! 大体おまえ、昔も今も大して生活変わっとらへんやん! 探偵稼業みたいな儲からへん仕事しおってからにー。しかも客のおらへん探偵なんて、帆のない船、天気予報のないテレビ、耳のないウサギみたいなもんやんけー!」
    「なんだそれ、可愛いじゃないか」
     居候のどこかずれた例えに、これまたずれた答えをジョシュアは返した。確かに、もこもこの真っ白な毛玉が人参をむさぼり食っている図は可愛らしいが、とにかく彼が言いたかったのはそういうことではない。
     私立探偵と言えば聞こえは良いが、その実体は困ったときにとりあえず呼んでみる近所の何でも屋といったところだ。浮気調査や迷子のペット探しといったまだ比較的探偵の仕事らしいものから、果てには子守や掃除手伝いや水道管修理なんておおよそ探偵らしからぬものまで請け負っている。しかも、数少ない依頼者は大抵が金持ちなどではなく、ジョシュア自身そこまで積極的に報酬を要求しないものだから、いつまで経ってもじり貧状態が続いていた。おまけに同居人は一切働かない。
    「ほんま頑張ってくれやぁ頑張ってぇなぁージョシュアがばりばり頑張ってわいを養ってくれんと困るがなー困るがなぁー」
    「あーうるさい! お前が働けこの無職!」
    「無職の何が悪い!」
    「大体全部悪いだろ!」
    「――おはようございます、八時のニュースです。本日は昨日発生した路上女児刺殺事件の続報が入っております。この事件は――」
     電波塔から発信される電波が、放置されたブラウン管を経由して軽快に物騒な内容を奏でていても、所詮自分たちには何ら関係はない。
     たとえその事件がこの街で起きていたとしても。
     どんなにわくわくするような出来事に隣人が出会っていたとしても、残念ながら自分は当事者にはなれない。
     悲しいけれど、それが現実ってやつなのだ。
     ジョシュアは日課通り気だるげに、玄関のドアについた古ぼけた郵便受けを確認しに席を立つ。何も入っていないのは百も承知だ。数少ない依頼者たちは口頭で用件を伝えてくるし、それ以外の依頼なんて来やしないんだから。真っ赤な箱を機械的に開き、そのまま閉じようと手を動かしかけ――その中身を二度見した。
     普段なら悲しいことに閑古鳥が鳴きっぱなしの郵便受けにぽつんと、一通の手紙。
     切手も郵便屋の印もないところを見ると、誰かが直接入れていったのだろうか。真っ赤な蝋で封がしてあり、裏返してみると、流麗な筆跡でジョシュアの名前が書かれている。
    「あーもうこのまま仕事もこんくて、電気もガスも止められて、愛しのノエルちゃんとも会えんようになって、わいら二人とも飢え死にするんやぁーしくしくしく」
    「そうでもないみたいだぞー」
     ジョシュアは手紙の中身にざっと目を通すと、嘘泣きを始めたうっとおしい居候に向かって、ひらひらと手紙を振ってみせた。
    「仕事だ」




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    第一話「歩く墓標と殺人教唆」 3

    「うっひゃあ……」
     高さ数メートルの格子状の柵が延々と続く大豪邸の前に、ジョシュアは立っていた。柵の上部は鋭く槍のようになっており、そんな馬鹿な真似をする奴なんていないだろうが、柵を登っての進入は不可能。その柵の中には、森かと見紛わんばかりの木々が生い茂り、遙か遠方にはどこの中世の城だと言いたくなるような尖塔がいくつもそびえ立っている。
     ところでジョシュアが何故何に圧倒されているかというと、この屋敷の巨大さに対してでも勿論そうなのだが――、それ以上に自身の周囲をぐるりと囲む、黒光りする銃口に対してだった。
     十人ほどのごつい男性ばかりが拳銃を構えて自分を包囲しているという笑えない図。
     限りなく真剣に生命の危険を覚えるべき情景なのだが、ジョシュアはついB級映画の主人公になってしまったかのような錯覚を覚える。
     なにしろこんな非常識な歓待を受けたのは初めてなのだ。
    「あ、あー。オーケーオーケー、なんだかすこーし不幸な行き違いがあったみたいなんですがね。とりあえず落ち着きましょうよ、ほら深呼吸すーはーすーはー、人類皆兄弟ですって。ここは一つ、友愛の精神で」
    「動くなと言っている」
    「うひゃあ」
     後頭部に銃口を突きつけられ、両手を上げて降参のポーズ。いくらなんでもこんなところで落っことすほど、自分の命は軽くはない。
    「何者だ、何の用でここをうろついていたんだ」
    「あ、怪しい者じゃアリマセーン。ただの通りすがりの冴えない私立探偵デース」
     ひきつった声で否定する。
     このときのジョシュアの服装は、三文小説によくいる典型的な探偵をリスペクトして、布の帽子にくたびれたコート。目には真っ黒なサングラス。口には吸えもしないのに古風なパイプが。そして顎には念のため付け髭をつけている。老人と見まがわんばかりの、ふさふさの白髭を。
    「怪しいな」
    「怪しいだろ」
    「怪しすぎるな」
    「うわ、ひどい」
    「おい! 正体が分かるまで、地下牢にでも放り込んでおけ!」
    「わわっ、待った待った待った! ほら、ほらほら依頼書!」
     当たり前のように飛び出た不穏な単語に慌てふためきながら、件の手紙を懐から取り出してリーダー格の男の目の前に突きつける。
     雑に扱われぐしゃぐしゃになった紙切れを目の前に、男は最初怪訝な顔をしていたが、その蝋印と封筒に描かれた文様を目にした瞬間、見る見るうちに顔色が変わっていった。
     そして、手紙をジョシュアの手から乱暴に掴み取ると、屋敷の中へと慌てて駆け込んでいった。
     全く嬉しくない熱烈な歓迎からひとまず解放されて、ジョシュアは内心息を吐いた。
     手紙で指定された場所が町はずれの山奥、しかも広大な墓地地帯を越えた地点だったところから、何かがおかしいとは思っていたが。ここまでぶっとんだ方々の依頼だとは思ってもいなかった。

     この街、ブルームフィールドは天国に一番近い街と呼ばれる風光明媚な歴史ある観光都市だ。東に広がる広大な森林地帯に、南方には歴史ある建造物が建ち並ぶ、まさに天国に一番近い場所なのである――というのは表向きの姿であり、実のところは居住区から川を一本またいだだけで、国中の墓場を集めた広大な「墓の山」が広がる、本当の意味で「天国に一番近い場所」なのである。近年は、数秒の土砂降りから快晴、と思えばすぐさま降ってくる雪といった突如急変する異常な天気を逆に売りにしているのだが。
     しかし、陰気な墓場を越えたこんな山奥に屋敷を建てるだなんて、物好きな人もいたもんだ。
     高級そうな紙に記された手紙を思い浮かべながら、ジョシュアはぼんやりと思った。
     手紙の内容は、この物騒な方々が物騒に警備するこの家の、一人娘の遊び相手を依頼するものだった。
     何がどうしてそんな大それた依頼が自分の元に舞い込んだのかは分からないが、とてもお断りして帰れる空気ではない。逃げようとすれば即、背後から鉛玉でドスンとやられてしまいそうだ。
     未だ周りを取り囲む方々から視線で訴えられ渋々外した帽子と髭をいじりながらそんなことを考えていると、背後から裏返った声が飛んできた。
    「たっ、探偵さん! ど、どうぞこちらへ!」
     振り向くと、僅かに開かれた門の前で、一人の若い男が異常に畏まり敬礼をしていた。人の顔を見るのが苦手なのか、それとも顔にコンプレックスでもあるのか、大きな帽子をやけに深くかぶった男だ。男の右手には、何に使うのだろうか、小さなランプが握られている。
    「あ、ああ。どうもー」
     ジョシュアは案内されるまま、門をくぐった。

     門の向こうはまさに森だった。
     蔦が這い、苔がむし、湿気が頬を撫で、曲がりくねった木々が絡み合い、降り注いでいるはずの日光は地上にはほとんど届いていない。だが、人が通ることのできる程度には最低限の整備はされているようで、じめじめとした剥き出しの地面には一定の幅の道が確保されていた。
     どこまで進んでもいっこうに前進していないと錯覚してしまうであろうその道を、帽子の男は手に持ったランプをがちゃがちゃと鳴らしながら、ぎこちない動きでそのまま道なりに進んで行く――のではなく、急に進路を変えると森の只中へと前進していった。
    「え」
     雑草を踏みしめながら、当たり前のように森の中へと進んでいく男を、ジョシュアは慌てて呼び止めた。
    「ちょ、ちょちょっと」
    「は、はい! なんでしょうか!?」
     遥か遠くに見える城と、森の只中とを交互に指すジョシュア。すると男は納得したようで、
    「あ、い、いえ、そちらではなく」
     男が指し示す方向。道なき道の向こう側。
     木々に覆い隠されるようにして、ぽつんと一基、小さな塔があった。
     おとぎ話の姫が幽閉されていそうな雰囲気を持つ塔。生い茂る雑草をかきわけ、放置された倒木を踏み越え近づいていくにつれ、徐々にその全容が明らかになっていった。
     その塔は小さかった。その円周を歩くとしても、二分ほどで周ることができる程度の大きさ。壁を構成するのは積み上げられた大きな煉瓦だ。
     木材を金属で複雑に繋ぎあわせた扉。男は大きな鍵を袖から取り出し、がちゃりと回した。
     ぎい、と音を立てて開く扉。
     まだ太陽の燦々と輝く日中、しかも間もなく正午を迎えるというのに、塔の中は深夜のように、いや、それ以上の暗闇に満たされていた。螺旋状になった階段を見ることはできたが、それ以上の奥、外部からの日光の届かない場所には、何があるのかすら視認することはできない。
     男は手に持っていたランプに火をつけると、躊躇うことなく塔の中へと進んで行き、ジョシュアは慌ててそれを追いかけた。
     改めて見ると、彼の深く被られた帽子の端からは黒くてぼさぼさの髪の毛が溢れだしており、まるで新種のキノコのようで。キノコがランプを持って先導してくれている図は、この塔の雰囲気も相まって、どうにも奇妙な絵本の一ページを見ているようで、ジョシュアは小さく吹き出した。
    「……ど、どうかなされましたか?」
     失礼極まりないことを考えていたとも言えず、ジョシュアは一人笑いをこらえた。
    「い、いやっ、なんでもっ……くくっ」
    「な、なんですか? ま、まさか何かお気にさわるようなことをしましたでしょうか?」
     その反応も相まってジョシュアは暫くの間喉の奥から込み上げる笑いを抑えられずにいたが、やがてえへんえへんと咳をすると、ぐっと表情を正した。こんなにやけた顔で屋敷の主人に遭遇でもしてしまったら、それこそ全ておしまいだ。
     二人分の足音だけが、ランプで照らされた階段に響く。
     外界から遮断された塔の内部には、森の中とは全く異質の空気が閉じこめられていた。耳鳴りが聞こえるほどの静寂。だが男は一切喋ろうとしない。先程までの森の中とは違い、自分たち以外に音が一切ない分、どうにも気まずい。
    「そ、それにしてもすごい家ですねー」
    「は、はい! すごい家です!」
    「羨ましいですよねー」
    「ははいっ! 羨ましいですっ!」
     いくら話しかけてみても、機械的にオウム返しするだけで会話が全く成立しない。だがここまできてしまうと話を止めるのは逆に気まずい。ジョシュアは矢継ぎ早に質問を重ねていった。
    「警備も厳重ですよねー」
    「げ、厳重です! はい!」
    「あの人たちおっかないですよねー」
    「うぇっ、えっ、はいっ! おっかないです!」
    「さっき絡まれちゃいましたよー」
    「かっ、絡まれちゃったんですか!」
    「ここってどんな人が住んでるんですかねー」
    「え、あっはい! こ、ここはブルームフィールド家の隠し屋敷です!」
    「はっ? ブルームフィールド!?」
    「あっ、いえっ、や、やっぱり今の無しで!」
     男はわたわたと慌て、ジョシュアを振り返った。可哀想になるほど動揺しており、今の発言が真実であったということは明らかだった。
    「え、ブルームフィールドって……」
    「いいいえいえいえいえいえいえ、なな、なんでもないですっ!」
    「いや、でも今……」
    「お、お願いです! お願いですから、ぜ、絶対絶対絶対、だだ、誰にも、いわっ、言わないでください!」
     その剣幕に押され、ジョシュアはこくこくと頷いた。
     ブルームフィールド家といえば、この街の名前の由来にもなっている名家だ。その財力はすさまじく、様々な分野に対して強大な影響力と発言力を持っている。
     しかもただの名家ではない。収賄、密輸から、暴力沙汰まで、金になることなら何だってするという、黒い噂の絶えない家だ。だからあんな物騒な方々が守っていたのかと、ジョシュアは一人納得した。
     こんな場所に住まわせている娘だとしたら、もしかして隠し子か何かなのだろうか。
     やがて永遠に続くかと思われた螺旋階段はあっさりと終わった。階段の終点にあったのは、大きな扉だ。
     男は立ち止まり、敬礼した。
    「こ、こちらがお嬢様のお部屋です! どうぞ頑張ってください!」
     何を頑張れと言うんだ何を。
     苦笑しながらドアノブに手をかけ、待てよ、と思い直す。
     そういえばブルームフィールド家当主、グラント=ブルームフィールドといえば、強欲狸じじぃと陰で言われる程度には相当歳がいっていたはずだが。その娘となると、どんなオバサンなんだ。
     毛皮で着飾り、でっぷりと脂肪を蓄え、過剰な化粧で女性がリアルに脳内に出現する。ジョシュアは自分の想像力を呪った。
     ましてやあんな手荒い歓迎をするような連中に守られ続けてきたであろう女性だ。一体どんな酷い扱いを受けるのやら。ジョシュアはだんだんと、平和な自宅が恋しくなってきた。今ならあの居候の興味の持てないラブコールだって喜んで聞くことが出来るだろう。
     だが、帰るわけにもいかない。いくらなんでも命は惜しい。
     ジョシュアは腹を決めると、扉をそっと引き開けた。
    「失礼しまーす……」
     まず視界を埋めたのは濃厚な赤。部屋を統一する重厚な赤色。
     次に目に飛び込んできたのは、消え失せそうな白。白く淡く波打つ腰ほどまである髪に、純白のワンピース。それらにとけ込み見えなくなってしまいそうな白い肌。首には場違いな色合いの、金色のロケット。足に履くのは艶やかな黒色。齢十にも満たないであろう少女が、部屋の中心にぽつりと置かれた不釣り合いなほど大きく豪奢な椅子に座らされていた。「座っていた」のではなく「座らされていた」のだ。そこに彼女自身の意思は感じられない。ただ、椅子の上に「座らされている」。シャンデリアの明かりに照らされたその目は、澄みきっているようで淀んでいて、どこでもないどこかを見つめているように曖昧な場所を見つめていた。精巧に作られた蝋人形だと言われれば、納得してしまうだろう。そんな少女だった。
    「ねぇ、ジョシュア」
     不意に、ガラスを鳴らしたかのような澄んだ声色が耳朶を打つ。視線を一切こちらに向けないまま語りかけられたことにもそうだが、まだ名乗ってもいないのに、まるで以前から知っている仲のような口振りで名前を呼ばれたことに驚きとっさに反応できないでいると、少女は、独り言を言うように、ぽつりと呟いた。
    「UFO、見たことある?」
    「……へ?」



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    第一話「歩く墓標と殺人教唆」 4

    「UFO、見たことある?」
    「……へ?」
     思わず間抜けな声が漏れる。どんな顔をしていいのかも分からず、ただ目を白黒させていると、少女はジョシュアのほうに首を傾け、繰り返した。
    「UFO。未確認飛行物体。多くは円盤型をしていると言われている。最初の目撃例は――」
    「いやいやUFOの意味が分からないわけじゃ」
    「見たこと、ある?」
    「な、ないです……」
     すると少女は一度ゆっくりと瞬きをして――彼女の顔にはほとんど変化がなかったので恐らくの推測の域にすぎないのだが――落胆の表情を浮かべた。
    「……そう」
     そのどこか悲しげに煌めいた瞳に、何故か罪悪感が生まれる。しかし、何を期待されているというのか。
    「私は、あるよ。……なんとなく、だけど」
     何故UFOなのか、何故初対面の自分に聞くのか。しかも、なんとなくなのか。
     発言の真意がくみ取れず、ジョシュアが答えあぐねていると、不意に入口の扉が音を立てて派手に開き、一人の老人が腕を広げて現れた。
    「おお、私の可愛いアンジェリカ!」
     そのまま微動だにしない少女を抱きしめ、キスの嵐を浴びせた。だが少女は人形のように抵抗せず、ただされるがままだ。
     目一杯目尻を下げて、くしゃくしゃの顔をさらに歪め、にへらとだらしなく笑っている彼こそがこの街ブルームフィールド一の悪名高き権力者、グラント=ブルームフィールド氏であるとすぐにジョシュアは理解した。
    「この物騒なご時世だ、本当は一歩だって外に出したくないし、できることなら君がどこにも逃げられないように縛り付けてしまっていたいのだが、君がどうしてもと言うから、ああ、アンジェリカぁ……」
    「お父様。泣かないで」
     おおよそ感情のこもっていないように思える平坦な声で父を慰める娘。だが父親は、彼女に対して盲目的な愛情を抱いているのだろうか、それとも彼女の声が聞こえていないのだろうか、全く気にすることなく一方的に話を続けた。
    「だが大丈夫だ、アンジェリカ。君にプレゼントがあるんだ」
     グラント=ブルームフィールドは、おもむろに一本の短剣を取り出した。
     赤色の鞘に広がるごつごつとした金細工。祈る人、踊る人、崩れ落ちる人、墓のメタファーであろう十字架、そして、「天使」。呪術的な何かに使われたものではないかと疑いたくなるほどにいき過ぎた装飾が所狭しと施された短剣だ。
     少女の瞳の前で、その刀身が禍々しくぬらりと光った。
    「怪しい人がいたら、とりあえずこれでグサリとやるんだぞ? 両手で持って体重を乗せてグサリだからな。後始末は私の部下がやるから心配しないでいいぞアンジェリカ。存分にやりなさい」
    「はい、お父様」
     目の前であまりにも軽やかに繰り広げられるあまりにも物騒な会話に、知らずのうちに頬の筋肉がひくりと動く。
     なんなんだ、この二人は。
     どう少なく見ても六十はいっているように見える白髪の老人が十にも満たないであろう少女を変質的なまでに庇護し、かしずく様は、まるで大の大人が人形遊びをしているようだ。溺愛という言葉だけでは生温い。この少女に魂まで魅入られてしまっているような、それとも本気で彼女に恋しているような――どちらにしても狂っている。
    「勿論、この男に変なことをされても同じことをするんだぞ? ……貴様アンジェリカにもしものことがあったらどうなるか分かっておろうな分かっておろうな! 目をくりぬき舌を引っこ抜き、生きたまま両手両足もぎ取って、内臓をフォークでかきまぜて、貴様の親類ともども犬の餌にしてくれるぞ!」
     顔を近づけ、老人は早口でまくし立てる。唾を派手に飛ばしながら、血走った目玉はぎょろぎょろと動き続ける。
     ジョシュアは背中に伝う冷や汗を悟られないようにひきつった笑いをみせながら、何の疑いもなくここにきてしまった過去の自分に思いを馳せた。金に釣られてほいほいと迂闊にも。とんでもない依頼を受けてしまったものだ。
    「行こう、ジョシュア」
     そう言うが早いか、少女――アンジェリカは椅子から立ち上がり、扉に向かってすたすたと歩き出した。追いすがるように腕を伸ばした父親を気にすることもなく、扉を閉めようとするアンジェリカを追いかけ、ジョシュアは部屋を出る。背中でアンジェリカの名前を呼ぶ親馬鹿親父の断末魔のような声が、重厚な扉にさえぎられて聞こえなくなった。
     薄暗く長い螺旋階段を単調な足音でアンジェリカはどんどんと歩いていき、その斜め後ろをジョシュアは小走りで付いていく――といっても二人の歩幅の差は大きく、あっという間にジョシュアはアンジェリカに追いついた。
    「行くって、どこに行くっていうんですか、ええと、アンジェ……うーん」
     彼女の名前を呼ぼうとして、口ごもる。
     一回りも年の離れた少女を様付けするのはどこか癪だ。かといって依頼人の娘を呼び捨てにするのはいかがなものか。そのまま思案にくれていると、
    「アンジェリカ」
     ジョシュアのほうを振り返ろうともせずに、彼女は繰り返す。
    「アンジェリカでいい」
     どこかぶっきらぼうにも聞こえる口調。だがこれこそが彼女の平生なのだとジョシュアは理解しつつあった。
     ジョシュアはふうと溜息を吐くと、改まって彼女に問いかける。
    「じゃあ、アンジェリカ。今からどこに?」
    「ちょっと街まで」

      *

     二人を乗せた車は屋敷の敷地を抜け、国立墓地へと入っていった。
     ただ棒を立てただけのもの、十字を組んだもの、石を積んだもの、生前の功績をたたえた彫像、石碑――と多種多様であったが、どの墓にも等しく墓の主の名前が刻まれていた。
     そんな墓の真ん中で、不意にアンジェリカは口を開いた。
    「探しているの。友達を」
    「友達?」
    「そう、友達」
    「どこに住んでいるんですか?」
    「知らない」
    「どんな名前なんですか?」
    「知らない」
     探すべき対象の名前も居場所も分からずにどうやって探すというのか。むしろそれは友達と呼んでいいものなのか。だがジョシュアにも名前の分からない例の「自称親友」がいる以上、何と言うこともできないのだが。
     沈黙に何かを読みとったのだろうか、アンジェリカは、なんとなく、と付け加えた。
    「探さなきゃいけない気がする」
    「……はぁ」
     どこを見ているのか分からないような目で、だがこの上なく真剣な目で、アンジェリカは語る。それ以上を尋ねることもできず、ジョシュアはただ相槌をうった。


     墓を越え、川を越え、街中をしばらく進み。
     頂上に円盤型の奇怪なオブジェを冠する、大きな大きな場違い電波塔のその足元近くまで来た時。
     車は急に止まった。
     開かれた車のドア。車内へと侵入する人のざわめき。ジョシュアは地面へ降り立つ。静寂の世界から人の世界へと放り出されたかのような感覚。見上げると、相変わらず空は馬鹿みたいに晴れ渡っていた。
    「ジョシュア」
     白のワンピースに黒い靴姿でジョシュアの目の前に立つアンジェリカ。街中で彼女の服装を見ると、まるで葬式に出かけるような出で立ちに見える。
    「こっち」
     それだけを言うとアンジェリカはすたすたと歩きだし、やがて一つの店へと入っていった。屋根が小さく張り出した、オープンカフェ。ジョシュアも慌てて追いかける。
     じろじろと、視線が突き刺さる。きっと兄妹か、誘拐犯にでもきっと見えているのだろう。単に、白くて目立つ彼女の容姿が珍しいからかもしれないが。
     近づいてきたウェイターに対して「コーヒー二つ」とだけ言うと、アンジェリカはカフェテラスの一番隅、ちょうど屋根の下に隠れる席へと腰を下ろした。
     目の前に湯気の立つコーヒーが置かれた瞬間、ジョシュアは急に不安になった。
     というかお金は大丈夫なのだろうか。
     ジョシュアは悲しいほど軽い自分の財布を探り、アンジェリカに視線を送る。すると、予想外の返答が。
    「濡れるから」
    「は?」
     至極真面目な面持ちでアンジェリカはそう言った。おそらくこのカフェに入った理由を答えたのだろう。
    「濡れるのは、嫌。違う?」
    「まぁ確かにそれは嫌ですけど……」
     見上げても、あるのは雲一つない青空だけ。天気が崩れる予兆なんてどこにも見当たらないし、朝の天気予報でも雨が降るだなんてことは言っていなかったはずだが。
    「なんとなく、だけどね」
     歌うようにそう言うと、アンジェリカは伏せ目がちにゆっくりと一度、まばたきをした。
     また「なんとなく」か。
     視線を上げると、駅前近いこの場所は、人間に満たされていた。ある人は忙しげに、またある人は楽しげに、歩き来ては、歩き去っていく。
     その時、空気が波打った。それはまるで――そんなものが存在するか否かは知らないが――この世界を支える柱が、ほんの僅かだけ、ぶれたかのような。
     世界の、視界の中心が遠ざかり、景色がぐるりと回転し、元の位置に収まった。
     ジョシュアは目と目の間を揉みながら、頭を振る。ただの目眩か何かだろう。きっと疲れているんだ。
    「お願いですから、迷子なんかにならないでくださいよー」
     言いながらジョシュアは、アンジェリカに視線を戻し――いない。
    「アンジェリカ!?」
     彼女がいるはずの空間には、カップから立ち上る湯気以外には、何も無かった。




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    第一話「歩く墓標と殺人教唆」 5

     彼女がいるはずの空間には、カップから立ち上る湯気以外には、何も無かった。慌てて辺りを見回すが、店内にいる様子はない。
     一気に血の気が引く。
     彼女の父親のあの言葉が脳裏で響きわたり、数瞬のうちに実現してほしくない愉快な想像が脳裏を駆け巡る。
     ジョシュアは椅子をひっくり返し立ち上がると、テラスの低い柵を乗り越え道に飛び出し、通行人の群れの中にアンジェリカの姿を探した。だが、彼女はどこにもいない。
     ぽつり、と。一粒の水が天より飛来した。濡れた鼻の頭。見上げると、かき曇る青空。目茶苦茶に落書きをされているかのように澄んだ青色は淀んだ黒色に置き換わっていく。やがて黒色で満たされたその直後、天のたらいを全てひっくり返したかのような雨が、すさまじい勢いで辺り一帯の地面を叩いた。
     雨に見舞われた人々は皆、雨をしのげる場所へと走り去っていく。持ち合わせていた傘をさそうとした者もいたが、傘で防ぐことのできる程度の雨ではない。視界を遮るのには十分すぎるほど重く、音さえも知覚することを許さない程の騒々しい雨だ。
     だがジョシュアは雨の中にいた。急の雨に見舞われ、雨水が服にしみこみ、ずっしりと重くなっているが、気にしている場合ではない。普段の自分なら迷わず軒下に駆け込むところだが、今は自分の命がかかっているのだ。
     なんとか目を開け、そして、ジョシュアは見た。
     滝のように降り注ぐ雨の真只中に一人の妙齢の女性が立っていた。空色の長い髪。すらりと伸びた手足。ぴったりと肌に密着した、水着のような奇妙な服装。
     その存在は、何もかもが場違いだった。だが――
    「……アンジェリカ?」
     髪も目も、年齢も服装も印象も全く彼女とは違う。だのにジョシュアの口は、自然とその名を呼んでいた。
     すると彼女は振り返り、黒目がちの大きな瞳でジョシュアの姿を捉えた。
     美しい女性だった。顔の造形は、おそらく神が直接手をかけて作ったのだろうと思いたくなるほど整っており、だがしかし、一切の表情が無いという欠陥点さえも、逆に神々しさの源になっていると感じさせる。そんな女性だった。
     だが、どこかがおかしい。
     どこかが致命的に間違っている。
     ジョシュアは穴があくほどに彼女を見つめ――そして気付いた。
    「あ」
     この豪雨の中、彼女は、雨に、濡れてはいない。それどころか、風さえも受けていない。この場所に存在する全ての天候に、全ての現象に、彼女は無視されていた。まるで彼女が、ここではない世界に立っているかのように。
     滝の如く轟々と流れ落ちていた雨はやがて、さらさらと優しい音へと変化していく。
     吸い込まれるように、足を踏み出す。急がなければ。
     速度はだんだんと増す。駆け寄る。
     そうしてジョシュアが彼女に触れようとした、その時。
     白昼夢であったかのように、彼女は跡形もなくかき消えた。
     見渡しても彼女はどこにもいない。雨は完全に止んでいた。あるのは、雨が止んだことで、ぞろぞろと道へと戻ってきた人々の姿だけだ。
     彼女に伸ばした手を引っ込めることもできないでいるジョシュアを避けるようにして、人の波は急速によみがえっていく。
    「え。……え?」
     何が起こったのか理解できず、ジョシュアはしばし呆然と立ち尽くしていた。
     その時、悲鳴が聞こえた。甲高い女性の悲鳴だ。かなり近い。
     どこからの悲鳴だろうかと辺りを見渡す間に、人はどんどんと集まり、ざわめきは倍々に増幅していく。
     ジョシュアは、手近な場所にいた男の肩を捕まえた。
    「あの、何の騒ぎですか?」
    「どうしたもこうしたも通り魔ですよ通り魔ぁ」
    「通り魔ですよ通り魔、通り魔怖いです……」
     男の言葉に重ねるように、傍らにいた女が答える。茶色の髪を左右で緩やかに三つ編みにした女性だ。
     野次馬根性でやってきたのだろうか、垂れ下がった彼女の目には、恐怖と共にどこか楽しそうな色が瞬いている。
    「通り魔?」
    「ほら、あそこですよあそこぉ」
     彼らの視線の先を見ると、人垣ができていた。
    「ナイフで誰か刺されたらしいですよー……」
     まさか、と。脳裏に最悪の事態がよぎる。
     この場合のジョシュアの考えた最悪の事態とは、残念ながらアンジェリカが被害者である想定ではなく、加害者ではないかという想定だった。
     父親に渡されたナイフ。まさか本当に言われたとおりに誰かを刺してしまったのではないか。だとしたら、ああ、どうやって言い訳をすべきか。
     ジョシュアはその現場に駆け寄ろうと足を踏み出し――、視界の端に白を見た。
     人混みの中。不自然にできた空間。
     誰の意識にも視界にも入らず、アンジェリカはぼんやりとした瞳で、ただそこに立っていた。
    「アンジェリカ!」
     名を呼び手首を掴む。驚くほどに細く、冷たい。
     振り向く。目を見開く。まるで動く死人でも見ているかのような目で。彼女は呆然とジョシュアを見上げていた。
     止んでしまった雨が、涙のように幾筋も彼女の頬を伝っていた。
    「……アンジェリカ?」
     だが、一つ瞬きをする間にその表情は幻のように消え失せ、何も感じさせない表情へと切り替わっていた。
    「帰ろう」
     ジョシュアの同意も待たずに、アンジェリカはすたすたと歩き出した。

      *

    「ご苦労でした。今日の報酬です」
     黒服を着た男が、ジョシュアに封筒を渡す。流石にその場で確認することはしなかったが、重さからしてかなりの枚数だろう。
     もし失敗していたらどうなっていただろう。想像するだけで非常に恐ろしい。
    「明日も、よろしくおねがいします」
     硬質的な物言い。なんだろうか、雰囲気がひどくぴりぴりとしているような。
     とにかくこれ以上厄介事に巻き込まれたくはない。そう思ったジョシュアは、踵を返し立ち去ろうとする。
    「待って」
     頭にタオルをかぶせられたアンジェリカが、車の中からジョシュアを呼び止めた。
    「これ」
     差し出された包み。
     赤色に、金細工の施された短剣――彼女が父親から貰っていたあの短剣だった。
    「え、でもこれはお父様にもらったものじゃ」
    「もっといいもの、持ってるから」
     だからといって、こんな高価そうで、薄気味悪いナイフを貰うわけにも。
     どうにも納得できず、ジョシュアが受け取れないでいると、アンジェリカは小さく「それに」と付け足した。
    「危ないかも。しれない」
    「え」
     目を丸くするジョシュア。アンジェリカはまた、あの言葉を付け加えた。
    「なんとなく、だけどね」

      *
     おかしい。何かがおかしい。
     時刻は日もとっぷりと暮れたころ。買い込んだ食材をジョシュアは抱えながら、家路を急いでいた。
     おかしい。何かが。
     目を上げる。いつの間にか、辺りは霧に覆われていた。徐々に霧は深く暗くなっていく。
     ――暗く? 霧が、暗く?
     唐突にジョシュアは立ち止まった。じりじりと肌が焼けるような感覚、肌の上で何かが小さく弾けるような感覚に、すぐ近くにその原因があるとジョシュアは何故か確信していた。振り向く。目を凝らす。
     黒い霧に溶け込むようにして、「それ」は存在していた。
     ずうっ、と空気を吸い込む音。管で水をゆっくりと吸い上げるかのようなその音は、びりびりと耳の裏を伝い、腹の裏側へと落ちていく。
     ジョシュアの頭からさらに頭二つ分ほど高い位置、顔があるとおぼしきその場所には黒いベールが幾重にもかかり、「それ」の表情を伺うことはできない。だが、その背中から生えた鈍い光を放つ一対の翼が「それ」の正体を雄弁に語っていた。
     ――「天使」だ。
     おもむろに立ち止まる「天使」。開かれた大きな二つの目玉が、ぎょろりと動いてジョシュアを、捉えた。
    「貴様」
     その単語は、冷え、張りつめきった空間を揺らし、妙に朗々と響きわたった。その単語が「天使」の口から発せられたものだと気づくのに数秒、自分を指すものだと飲み込むのにさらに数秒。不自然な空白の後に、「何か」が、ジョシュアへと襲いかかった。
    「貴様、貴様貴様、何者だ」
     宙へと浮かび上がるジョシュアの身体。もちろん彼の意思とは関係ない。骨がみしりと音を立てる。
    「答えよ、貴様は何者だ」
     そのまま壁へと叩きつけられた。背中から突き抜ける衝撃に、意識の裏側で火花が弾ける。
     答える暇もなく、ぐぐっと、腹にかかる圧力が大きくなった。同時に彼の首にもその圧力は襲いかかった。肺の中の空気が無理矢理押し出され、喉を押さえられ息もろくにすることもできず、ジョシュアは陸に上げられた魚のように口を開け閉めさせ喘ぐ。まるで、見えざる巨人によって体を掴み上げられているような。
     自分は死ぬのか。こんな唐突に、こんな理不尽に。これならまだ犬に噛まれて死んだほうが納得できるってものじゃないか。よりにもよって、こんな正体不明の、ファンタジーな存在に、偶然出会って死ぬなんて。
     駆け抜けていく断片的な景色。これが走馬灯というやつだろうか。

     街、路地、小さな男女。
     男は自分で、じゃあ女の方は妹だろうか。
     いや待て、俺には妹なんていない、
     確か友人だったような、名前は――、
     ああくそ、名前も知らない奴らばっかりだ。
     だけどおかしいなもう一人いた気が
     ああそうだ彼がいて
     でもあれ、なんで
     おれが

     急速に現実へと巻き戻る。
     ゆっくりと迫る「天使」の青白い手。ひ弱そうなその手が、ジョシュアの目には何故かナイフのように鋭く恐ろしい何かに見えた。
     きっと、触れられて、自分は死ぬんだろう。
     その手がジョシュアの肌に触れる――その寸前、何かがすさまじい勢いで飛来し、石畳の地面に深々と突き刺さった。
     緩やかにカーブした金属の骨に、白のレース、ピンク色に白の水玉が入った布が張られた――傘、が。
    「そこで何をしている!」
     切り裂き、飛来した声。声色は女。聞こえたのは頭上。
     みんなのアイドル、朝の顔、歌って踊れるお天気お姉さん界の星――ノエル=スノウがそこにいた。





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    第二話「とある天使予報士による観測」 1

    「今日の天気は晴れのち曇り。ところにより、激しく「天使」が降るでしょう。刺激さえしなければ人に危害を加えることはありえませんが、皆さん、戸締りはしっかりして、夜間の外出は控えるようにしましょう。以上、ノエル=スノウのお天気予報でした。また明日この時間にお会いしましょう――」
     にこやかな表情で手を振る。エンディングが流れ、カメラが引いていく。数秒後、撮影中のランプが消えた。
    「はいっ、お疲れさまでしたー!」
    「お疲れさまですっ!」
     撮影スタッフの快活な声が響き、天使予報士ノエル=スノウは、スタッフ一同に明るく微笑みかけた。まるでヒマワリのような明るい笑顔に、スタジオ内は和やかなムードに満たされる。
     プロデューサーがノエルに歩み寄り、彼女の肩をバシバシと叩いた。
    「いやー、よかったよノエルちゃん。流石は歌って踊れる天使予報士!」
    「あ、ありがとうございますっ」
     真正面から褒められ、ノエルは照れ臭そうに、はにかんだ。
     天使予報士とは、十年前存在が確認した特殊な天気「天使」を観測し、予報する資格を国家試験によって取得した者のことである。だが、まだ導入されて日の浅い制度である上に、認定基準が曖昧であるために、その総数は未だ少なく、天使予報士は様々な現場で重宝されていた。
     特に彼女――ノエル=スノウは、若干19歳にして天使予報士の資格を取得した天才児である上、天使予報の仕事は正確かつ確実、本職のアイドル業も怠ることなく、さらに持ち前の明るい性格でコメンテーターの仕事もこなす、万能天使予報士として知られていた。
    「ノエルせんぱーい!」
    「あ、サニーさん!」
     パタパタと近づいてくる足音。能天気そうな声色。金髪の若い女性――だが少なくともノエルよりは年上に見える、だが身長はノエルよりも頭一つほど小さい、そんな彼女は、まるで飼い主を見つけた犬のようにノエルにかけより、そのまま何もないところでつまずき、ド派手にずっこけた。
     宙に放り出され、バラバラと舞い落ちる数十枚の紙。顔面を強打し、床に突っ伏した彼女。
    「だ、大丈夫ですか?」
    「うう、ごめんなさいぃ……」
     彼女の名前はサニー=ウェザー。ノエルの後輩にあたる、天気予報士だ。そこにいるだけで何か重大な問題をしでかすトラブルメーカーとして、ある意味、重宝されている。
    「だめですよ、気をつけなきゃ」
     ノエルはしゃがみ込み、散らばった資料を拾い出した。慌ててサニーも起き上がり、拾い始める。
     始まりはサニーがちらりと、目配せをしたことからだった。しゃがみ込み、書類を拾い集めながら、周囲にそれと気取られないようにさりげなく、近づいていく二人の顔。サニーは、まるでよく懐いた犬猫がそうするようにノエルの頬に頬を寄せる。彼女の吐息が耳へとかかり、そうして唇が耳朶に触れる寸前、サニーの唇は何事かを囁き、ノエルから離れていった。ノエルは先に立ちあがりかけたサニーの顔を潤んだ目で見上げ、小さく頷く。
    「そうだノエルちゃん! これから少し時間あるかい?」
    「へっ!? あー、すいません、今日はちょっと……」
     突然背後からプロデューサーに声をかけられ、歯切れ悪い返答をするノエル。そんな彼女の腕に絡みつくようにして、サニーはノエルに抱きついた。、
    「ノエル先輩は、これから私とおデートの約束があるんですもんねー!」
    「もーサニーさん! 誤解を招くようなこと言わないでくださいよー! 恥ずかしいじゃないですか!」
     冗談なのか、本気なのか。きゃあきゃあとはしゃぎながら、二人はスタジオを出て行った。
     冗談だろうが本気だろうが、どちらにせよ、いつものことか。スタッフたちは皆一様に、肩をすくめたり、苦笑いをしながらも、各々の仕事へ戻っていった。
     「ただの後輩」に優先順位が負けてしまった、プロデューサーを置き去りにして。

      *

     廊下の端、ノエルに半永久的に割り当てられた楽屋。そのドアがばたんと閉まり、ノエルは後ろ手で鍵を閉めた。
     そして彼女は、「明るく愛らしい天気予報士ノエル=スノウ」の演技を、止めた。
    「毎度毎度こればかりは慣れないなっ……!」
     天気予報士の制服のネクタイを弛め、ぐぐぐっと伸びをして、全身の緊張をほぐすノエル。
     凛々しくつり上がった眉。明確な意思を湛えた黒の瞳。肩のあたりで切り揃えられた艶やかな黒髪。男勝りな性格に喋り方。
     これがノエル=スノウの本当の姿だ。
    「まぁまぁ、今日も名演技でしたよノエル先輩っ!」
    「思うのだがなサニー。ああやってわざわざ接近して伝えるのに意味はあるのか? なにやら余計な噂が立っているような気がするのだが」
    「あっははー。気のせいじゃないですかぁー?」
    「……まぁいいが。業務に支障のない程度にしてくれよ?」
     ノエルが壁のくぼみを押すと、彼女の目の前に鍵穴が現れた。慣れた手つきでその鍵穴に、懐から取り出した鍵を差し込む。すると、滑るように開く壁の一部。内部には直方体の空間。
     限られた人間しか乗ることを許されないエレベーターがそこに姿を現していた。
    「毎回思うんですけど、これってここまでして隠す必要あるんですかねぇー」
    「天使渡航規制協定、第一条第一項、天使はヒトに害を与えてはならず、ヒトもまた天使に害を与えてはならない。……彼らと我らの間の基本事項だろう?」
     二人はエレベーターに乗り込み、最上階行きのボタンを押す。
     十年前の「天使」の発見は偶然であり、また、天恵でもあった。「天使」とは上位世界の人間であり、神格化すべきものではないということ。不測の事態によって、ある種の上位者からもたらされたその事実は、当時の人々に衝撃を与えた。
     そしてヒトは、「天使」と渡航規制協定を結び、不要な混乱を招かないためにも、「天使」の存在を公にしないことを決めた。
     上位世界からの訪問者――上位世界に住まう人間である「天使」の存在を隠し、「天使」からヒトを守護すること。それが、表向きには公表されていない天使予報士の使命だった。
     エレベーターの扉がゆっくりと開き、弱い青色光に満たされた薄暗い空間が現れる。壁一面に埋め込まれたモニターはそれぞれで青色の面にこの街の空間のぶれについての膨大な観測情報を示しては消していく。部屋の中心に柱のようにそびえ立つ中央装置は幾筋も走っている裂け目から仄かな光を放ち、一種の神殿のような様相を醸し出している。この世界の技術の粋を集めたこの場所は、太古の遺跡のように密やかに、この街ブルームフィールドの中心に君臨していた。
    「古来、ヒトは絶対者の使者として異世界よりの訪問者を見た」
     淡い光の中心地点に立つ男。この街唯一のテレビ局局長にして、この隠された部屋「天使定点観察所」所長でもあるアデル=スノウは、静かにゆっくりと語り始めた。
    「最初に訪れた使者は、ヒトに名前を名乗ることを教え、最後に訪れた使者は、人に墓を作ることを教えた。それが、この国の、いや、この世界の天使信仰の始まりだ。だがこの国の墓への執着は、私に言わせれば、――異常なのだが。……どちらにせよ天使は信仰すべきものだった。今までは、な。だが、ヒトはその認識を変えるべきだ。何故か分かるかね?」
    「天使はもはや信仰の対象ではありません。ヒトが、ヒトの意志で、管理すべき存在です」
    「その通り。だからこそ我々、天使予報士が彼らを管理し、彼らからヒトを守らねばならないのだ!」
     恍惚とした表情で語るアデル。ノエルは小さく溜息をついた。
    「……そろそろ本題に入りましょう、父上」
     毎日行われる父親の長々しい演説をぴしゃりと終わらせ、ノエルは話を促した。
    「うむ、いいだろう。……サニー」
    「はいっ、今日は渡航申請が一件と、空間の歪みの観測が数件とそれから――昨日駅前で発生した路上刺殺事件についての報告が上がっていますー」
    「路上刺殺事件?」
    「はいー。白髪の少女が刺殺されたという目撃情報がいくつも上がっているのに、加害者どころか、当の死体も上がっていないっていう妙な事件で――」
     たどたどしい手つきで資料を探そうとするサニー。数枚の写真や文章の書かれた紙が、既に床に落ちてしまっているが、彼女は気付く様子も無い。
     サニーが資料をぶちまける未来を三秒後に予感しながら、ノエルは床の資料を拾い上げ、その事件の場所を確認した。
     その場所は――、ブルームフィールド中央駅前。

      *

    観測外事項 ####-###〜###-###-###-2563号

     名前が、ない。
     その事実に気づいてしまったとき、「それ」は愕然とした。
     名、氏名、名称、呼び名、呼称――おおよそ「名前」と呼ぶべきもの全てを、「それ」は持ってはいなかった。
     「それ」は混乱していた。
     今の今まで、気付いてしまうまで、自分は自分としてそれまで生きてきたはずなのに、その記録が自分にはない。いや、もしかするとそこに自分という存在さえもなかった。
     ない、何もない。あったはずのものが、どこにもない。年齢も、性別も、自分を指し示し支えるべき要素全てが、綺麗さっぱりと「それ」の中から消え去っていた。
     込み上げる恐怖は、雄叫びとなって空気を揺らす。だがその音が知覚されることは遂にない。
     希薄になる世界、希薄になる「それ」。安定を失った「それ」の見る世界は、ぐらぐらと不安そうに揺れ続けた。
     よろめき、床へと倒れ伏す。巻き込まれ、ぶちまけられる筆記具を見、ようやくここが室内であったということを思い出す。
     だが、ここはどこだろうか。知らない場所だ。いや、知っていたはずの場所だ。
     鏡に映る姿と目が合う。
     誰だ、これは誰だ。
     その人物を、「それ」は知らなかった。いったい誰だったかを思い出そうと「それ」が見つめれば、怯えた表情の見知らぬ誰かが見つめ返す。
     誰だ、誰なんだ。
     手掛かりを探さんと、辺りを見渡す。
     その時。「それ」は見つけた。崩れ落ちた「それ」のちょうど目の位置の前、無造作に置かれた刃。
     そして「それ」は何をすべきなのかを唐突に悟った。
     名前がないのなら、名前がないのなら。
     刃を掴み上げる。荒い呼吸が、五月蠅すぎるほどの鼓動が、「それ」の下へと帰ってくる。
     ぐらぐらと揺れ続ける世界の中で、「それ」は安定を求めて立ち去った。




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    第二話「とある天使予報士による観測」 2

    「わー! ノエル先輩見てくださいよ、ノエル先輩!」
    「こらサニー、遊びに来たわけじゃないんだぞ」
     手には桃色の傘。顔には大きなサングラス。上着の下には天使予報士としての制服を着こみ、ノエル=スノウは駅前広場へと至る道に立っていた。
    「ノエルさんこれすごくかわいいですよノエル先輩ノエル先輩!」
     対するサニー=ウェザーは、店先に並んだ可愛らしい品物を目の前にして、はしゃいでいた。
     本当は、件の少女刺殺事件における天使との関連性の調査のために来たはずであったのだが、サニーはすっかりその事実を忘れ去っているようだ。
    「ああ、それからサニー」
    「はいなんでしょうノエルせんぱ」
     振り返ったサニーの口を手のひらでふさぎ、ノエルは顔を寄せた。身長差から、ノエルはサニーの顔を覗き込むような、逆にサニーはノエルを見上げるような形になる。
    「あんまり私の名前を連呼してくれるな。周りにバレてしまうだろう?」
     睫毛が触れるほど接近し、そうやって小さく囁くノエル。サニーは、赤面した。
    「ノ、ノエル先輩の不潔っ!」
     弾け飛ぶように後ずさると、腕を振り回してぽかぽかと軽く何度もノエルを殴った。
    「い、今のなんですか無意識なんですかあれで無自覚なんですか天然なんですか!? エロいです! そんなノエルさんなんてエロいです! エロエロ! エロエロエロエロエロエロエロエロ」
    「うるさい」
     ノエルは手を縦に立てて、腕をぶんぶんと振り回して暴走するサニーの頭にびしっと当てた。
    「い、痛いです……」
     頭を両手で押さえて後退るサニー。彼女の体はそのまま背後の棚にぶつかり、積み上げられていた商品が床にぶちまけられた。
    「わわっ、わわわわわわわわわわごめんなさい……」
     慌てて拾い始めるサニー。先程の件といい今といい、拾うのがそんなに好きなのだろうか彼女は、とかぼんやりと考えながら、ノエルは彼女を手伝ってあげようとしゃがみこもうとし――
    「む」
     吹き抜けた異質な風にノエルは空を見上げた。澄み渡る青空にインクを垂らしたように、黒雲が急激に広がっていく。
     実は「天使」を天気の一種として扱うのは、あながち間違った解釈ではない。
     上位世界の住人たる彼らが境目を越えるとき、どういう理屈なのかは未だ解明されていないが、些細な異常気象が起こるのだ。例えば今まさに起こりつつある、この何の前触れもない夕立のような。
     だが、この時間帯には渡航申請は受けていないはずだが。
     その原因に思い至り、ノエルは口の中で苦々しげに呟いた。
    「また不法渡航者か」
     天使渡航規制協定、第二条、渡航申請なしでの、「天使」の渡航を禁ずる。
     ヒトと「天使」の関係性上大きな柱の一つであるが、その一方、申請を行わず、下位世界へと渡航する不法渡航者は後を絶たない。
    「行くぞ、サニー」
     振り返らないまま、背後でぶちまけてしまった品物を拾い集めているはずのサニーに声をかける。だが、返事は無い。
    「……サニー?」
     不審に思い、振り返る。
     だが、サニー=ウェザーの姿はそこにはなかった。


    幕間「鏡合わせの観測」

     余談ではあるが、どんな時代、どんな場所にだって、関わってはいけない人間の一人や二人、三人や四人、五人や六人や七人や八人はいるものだ。
     天国に一番近い街、ブルームフィールド。最も人で賑わう中央駅前、建物の陰に隠れてしまうような場所で、その少女はきょろきょろと辺りを見回していた。少女の手には革製の大きなトランク。動物の耳を模した飾りの付いた、耳を隠す形の毛糸の帽子からは、ふわふわの猫毛が溢れ、肩の辺りで左右に緩やかに三つ編みが結われている。丸眼鏡の奥の気の弱そうな瞳は喧噪の中で不安げに揺れており、いかにも今、田舎から出てきたばかりのように見える。そんなあか抜けない少女だった。
     そんな少女に、ある男が背後から不意に声をかけた。
    「ねぇねぇ、そこの君」
     少女はびくりと肩を震わせると、大きな黒色の瞳でおどおどとその男を見上げる。金髪に若い男は、にやにやと笑っていた。
    「今一人ぃ? どこ出身? 今この街に着いたんだよねぇ? この街ってよくありえない天気になるんだけど、君、雨に降られたら困るだろ? 実は俺、あっちの通りにレストラン持ってるんだけど一緒にどう?」
    「え、え、……え?」
     立て続けに投げかけられる質問。理解が追い付かず、少女は困惑した表情で男を見上げた。
    「もちろん、来るよな?」
    「えっとあの、人を、待っているので……」
     立ち去ろうと男から視線を逸らして歩き出す。
    「そう言うなって、ちょーっと一緒に来てくれるだけでいいからさぁ」
    「ほ、ホントに、忙しいので……っ」
     彼女の腕を乱暴に掴み上げる。
    「おいおいおい、俺を誰だと思ってるんだ、君。泣く子も黙る狂犬チャック様だぜ? 大人しく着いてきたほうが身のためだと思うけどなぁ……?」
     逃がさないように少女の腕を持ち上げながら、腰のベルトにかけたナイフをちらつかせる。
     それを見た少女は小さな悲鳴を上げて、跳び退った。だが、男は掴んだ腕を離さない。
    「は、離してくださいっ……」
    「いやだね」
    「助けてくださいっ、誰か助けてっ」
     少女の叫びは、正午近い、駅前広場に響きわたった。この時間、駅前にはかなりの数の通行人が行き交っている。
     だが誰も助けようとはしない。誰もが目を逸らして通り過ぎていく。誰も、進んで関わりたいとは思わない。そして誰もが思っている。きっと、自分が助けなくても、きっと誰かが助けるだろう、助けるに決まっている、と。そう考えるのが、賢い人間の生き方だと知っているのだ。
     無理矢理にでも連れ去ろうと、彼女の手をぐいと力づくに引っ張った、その時。
    「あのぉ、止めましょうよぉ」
     まるで教師に意見する子供のように、手を挙げて一人の青年が近づいてきた。
    「そういうのはぁ、よくないと思いますよぉ」
     場違いなほどに能天気な声色。何が楽しいのか、にこにこと笑い続ける目。ぱたぱたと手を振りながら近づいてきたのは、赤い短髪に、右目に泣きボクロのある青年だった。
    「んだぁ、赤毛野郎? テメェには関係ねぇ話だろ?」
     少女の手を乱暴に放すと、右手で青年の胸倉を掴み上げる。
    「俺を誰だと思ってんだ、ああ? 狂犬チャック様だぜ? この街でこの俺に逆らった奴がどうなるか――」
     ごき、と。
     鼓膜に響く妙な低音。
    「……あ?」
     青年の胸倉を掴んでいたはずの右手。その手首に優しく添えられた青年の手。
     チャックの腕力でほんの少し浮き上がっていたはずの青年の体は、何事もなかったかのように地面へと。その代わりに、と言っては間違っているかもしれないが、チャックの右手首は重力に従ってだらりと下を向いていた。もちろん、チャックの意思とは関係ない。
    「えっとぉ、どうなるんですかぁ?」
     首をかしげる青年。
     金で雇った屈強な取り巻きたちが、逃げ去っていくのが視界の端に映った。
     つまり、この青年が、俺の手首を折った。まるで、小枝でも折るかのように簡単に。しかもこいつは白々しく、何があったのかと尋ねている。笑顔で。
     順を追ってようやく理解すると、チャックは顔を真っ赤にして激高した。
    「お、俺をおこ、怒らせた、な! こ、ころ、殺してやる!」
    「わわぁ」
     ナイフを取り出し、口で抜き放った。不気味な笑みを浮かべながら、ふらふらと青年ににじり寄るチャック。
    「死ねぇ!」
    「そんなことしたら危ないですじゃないですかぁ」
     振り下ろされたナイフ。その軌道は完璧だった。違うことなく青年の体を捉えていた、はずだった。
     だがその刃は何故か、空を切った。おまけに、先程まで自分と同じほどの場所にあったはずの青年の頭が、遥か下方に見えている。具体的には腕を伸ばせば届く辺りに。
     そして男は気付く。喉が締め付けられるような感覚に。
     いや、締め付けられるような、ではない。男の首は、虫も殺せなさそうな顔で微笑む青年の、大した力もなさそうな細腕で持ち上げられ吊るされ、女のそれと見紛うほど綺麗に手入れされた繊細な指で、ぎりぎりと締め付けられていた。
     吊り下げられた彼の頭は、顔は、見る見るうちに赤黒く充血していく。バタバタと動かされていた手足もダランとだらしなく下に落ち、辛うじて青年を睨みつけていた目もやがて白目を剥き、あわやそのまま主の御元へと召されようとした、その時。
    「だめ、だめだめ、殺しちゃだめ、やめてミラ」
     青年の腕にすがりつき、涙をためながら少女は訴えた。
    「ああ、そうだね、そうだったぁ、ごめんよミラぁ」
     ミラと呼ばれた青年は、少女をミラと呼び、あっさりと指を弛めた。
     無様に落下する男。地面にはいつくばりながら、喉を押さえて咳き込む。
    「ごめんねぇ、そんなつもりじゃなかったんだぁ。俺達って本当に嫌なやつだよなぁ、こんなことで君を殺そうとするなんてぇ。ほらお詫びのしるしにいい病院紹介してあげるから、連絡先教えなよぉ」
     人の良さそうな顔で手を差し出す赤毛の青年。
    「本当にごめんなさい、私たちって本当にダメなやつね、こんなことであなたを許せないなんて。怪我が治ったらここに連絡してくださいね、もう一度その手首折りに行きますからっ!」
     心底申し訳なさそうな顔で小さな紙を差し出す少女。
     今、一体何を言われたのかを理解できず男は、立ち上がることもできないまま、ただ呆然と、差し出された二つの手を見上げた。
    「さぁ」
    「さぁさぁさぁ!」
     自分が何をしたというのか。ただ、駅前で田舎者の女の子をナンパしただけだったはずなのに。
     やがて許容量を超えた彼の脳は、意識を手放すことを決定した。数分前の光景が走馬燈のように過ぎり、
     消え行く意識の中で、狂犬チャックは彼女たちに関わってしまった自分の不運を恨んだ。


     前触れもなく、ばたりと倒れる男の体。
    「あら?」
    「あれぇ?」
     ぺたぺたと頬を叩いてみるが、口の端からぶくぶくと泡を吹くだけで、目覚める気配もない。
     二人のミラはしばらくの間不思議そうに首を傾げていたが、やがてうんうんと頷くと微笑み、顔を見合わせた。
    「正当防衛だねぇ」
    「ええ、正当防衛ね」
     そしてミラはしゃがみ込むと、男の懐をごそごそと漁り、財布を抜き取った。
    「これも正当防衛だわ」
    「そう、正当防衛さぁ」
    「では善良な市民の皆さん、誰かこの不運な人のために救急車を呼んであげてくださいね」
    「僕たちが呼んであげたいのは山々なんだけどぉ、悲しいけど僕たち今からデートに行かなきゃならないんだよねぇ」
    「本当にごめんなさいね、私たちって嫌な奴ね」
    「本当にごめんねぇ、僕たちって嫌な奴だよねぇ」
     圧倒的にどこか間違っている主張を周囲にアピールする二人。だが誰も何も言わない。何も指摘しない。誰も関わろうとしない。
     手の中の財布をもてあそびながら、ミラは悠然と歩き去っていく。
    「だめじゃない、ミラ。私に無断で人を傷つけるなんて」
    「ごめんよ、ミラぁ。君と一緒に傷つけなきゃいけなかったのにぃ」
    「それに殺そうとまでするなんて! 殺しちゃったら私たちお揃いにならないじゃない!」
    「そうだねぇ、一度殺してしまったらもう一度は殺せないからねぇ」
    「ええ、私たちはお揃いじゃなきゃいけないのよ?」
    「そうさぁ、俺たちはお揃いじゃないといけないのさぁ」
     当たり前の風景の中に溶け込むようにして、ミラたちはどこか壊れた思想を語り合う。そんな二人の視界の端を、白い少女が早足で歩いていった。
    「ああ、あの子は例のあの子だねぇ」
    「ええ、あの子は例のあの子ね」
     その少女の後を追うように、若い男が。さらにその後ろにぞろぞろと黒服を着た男たちがついていく。
    「あの子を殺したら、じぃじはどんな顔をするかしら」
    「あの子を殺したら、じぃじはどんなことをするだろうねぇ」
     その様子を想像したのだろうか。二人は顔を見合わせ、くすくす、と笑いあった。
    「何か、みんながびっくりするようなことを、してみたいねぇ」
    「ええ、みんなをあっと驚かせたいわ」
     黒服たちから少し遅れて、帽子をかぶった男。そして、可愛らしい店の前でこんなに綺麗に晴れているというのに傘を持っている女性。
    「じゃあこういうのはどうだろぉ」
     ミラはミラの耳元へ唇を寄せ、何事かを囁いた。二人は顔を見合わせ、小さく笑いあった。
    「私たちって本当に嫌な奴ね」
    「ああ、本当に俺たちって嫌な奴だよねぇ、反吐がでるよぉ」
     不穏な色に染まり始めた空の下、まるでお花畑を見つけたおとぎ話の乙女のように、足取り軽く、楽しげに、二人は人混みの中へと消えていった。 
     二人のミラ。関わってはいけない二人組。
     一度関わってしまえば、確実に二度、同じ地獄を見せられる。




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    第二話「とある天使予報士による観測」3

     そして話は唐突に本筋に戻るのだが、ノエル=スノウは頭を抱えていた。
     止みかけた雨粒が、傘に当たってぱらぱらと音を立てる。だがその音は一人分だ。
    「まったく……」
     そう、サニー=ウェザーはいまだに行方不明だったのだ。
     だが幸いなことに、この雨はただのにわか雨であり、通り魔騒動とやらも天使には関係のない事件だったようだ。
     ノエルは大きく頭を振ると、通り魔の件は警察に任せ、サニー探しに全力で挑むことを決定した。
     今日中に通り魔事件が解決しないのは別に困らないが、自分やサニーが夕方のニュースや、夜のパトロールに間に合わないのは、いささか困る。
     そんなことを考えながら傘を畳み、ノエルは道の角を曲がろうとし、
    「うわっ」
    「む、これは失礼」
     出会いがしらに自分よりも背の高い男と衝突した。
     だが倒れたのはノエルではなく、相手の男だ。
     ここは普通、女である自分が倒れるべきなのではないかと複雑な思いに駆られながらも、ノエルはその男性に手を差し伸べた。
    「立てるか?」
    「ああー、ほんますまんなぁ、ちょっと急いどったんや。許したってぇな」
     差し出された手を取りながら、男はにへらと笑った。
     妙な訛りがついた喋り方をする男だ。年齢は二十歳くらい、いや、もっと下だろうか。
    「なぁなぁねーちゃん」
    「ん?」
    「なんやねーちゃん、ノエルちゃんに似とらへん? みんなのアイドル、スーパーお天気お姉さんのノエル=スノウちゃん! わい、ノエルちゃん大好きなんやぁ」
     にこにこ、と。差し出された手を握りしめながら、邪気の無い笑顔を振りまく男。少し引きながらも、ノエルは礼を言った。
    「あ、ありがとう」
    「もう運命やん運命やんー。なぁねーちゃんのこと、ノエルちゃんって呼んでもええ? ほんまノエルちゃんにそっくりなんやぁ」
     そう言いながら彼はくねくねと体を動かす。そっくりも何も、本人なのだが。だが、だからこそ断る理由も無い。
    「ああ、別に構わないが……」
    「あ、わいか? わいはバリーや! バリー=ヤードスミス! よろしゅうにノエルちゃん!」
     よろしくと言われても、何をどうしてよろしくすればいいのか。
     乾いた笑いを浮かべながら、この少々不審な男から一刻も早く一歩でも遠ざかろうと後ずさったその時。
    「せんぱぁーい……、ノエルせんぱぁい……」
     どこからか微かに聞き覚えのある声が聞こえてきた。
     心なしか涙交じりの情けないその声に、思わずノエルは口の端を引き攣らせ、バリーから目を逸らす。
    「す、すまないが急用を思い出したまた今度話そう!」
    「おー、ほなまたなー、ノエルちゃん!」
     足早に立ち去り、声が聞こえてくる方角へと向かう。路地を曲がって辿り着いた小さな路地を、さらに曲がって、曲がって曲がり――、ようやく辿り着いた奥まった場所。
     そこに、サニー=ウェザーはいた。
    「もう誰でもいいですー、誰かー……」
     ノエルは両手でこめかみを揉みほぐし、頭痛を堪えた。
    「何をしているんだサニー?」
     バタバタと動かされる足。上半身は見えない。サニー=ウェザーはゴミ溜めの中に頭から突っ込んだ姿勢で発見された。
    「ふぇっ、ノエル先輩!? ご、ごめんなさい!」
     泣きそうな声で謝るサニー。だが、腰から下しか見えない状況で言われてもどうにも誠意を感じることは難しい。
    「まぁいい、早く帰るぞサニー」
     そのまま立ち去ろうとするノエルを、サニーは必死に呼びとめた。
    「あ、あわわっ、ま、待ってください!」
    「ん?」
     サニーは言いづらそうに――おそらくは恥ずかしげに顔を伏せながら、今の状況をノエルに告白した。
    「その……た、立てないんです……」
     暗に助けを求めるその言葉に、頭痛を覚えながらノエルは、サニーの腰の辺りを掴んで、一気に引き上げた。
    「うひゃあ!」
    「全く君は、注意力が散漫すぎる。もっと気をつけたまえ。それから……」
     ノエルはうーむと唸りながらサニーを上から下まで見た後、彼女から一歩離れた。
    「な、なんでしょう?」
     彼女の服にはもちろん、顔や髪にまでへばりついたゴミの数々。無視しようとしても、いやがおうにも嗅覚が感知してしまう見過ごせないレベルのこの現状。
    「……いや、なんでもない。なんでもないが――君は可及的速やかに風呂に入るべきだろうな」
     サニー=ウェザーの顔面は、一瞬で熟れたリンゴのように真っ赤になった。

      *

    観測外事項 ####-###〜###-###-###-2564号

     名前が、ない。
     その事実に気づいてしまったとき、「それ」は愕然とした。
     名、氏名、名称、呼び名、呼称――おおよそ「名前」と呼ぶべきもの全てを、「それ」は持ってはいなかった。
     「それ」は混乱していた。
     今の今まで、気づいてしまうまで、自分は自分としてそれまで生きてきたはずなのに、その記録が自分にはない。いや、もしかするとそこに自分という存在さえもなかった。
     ない、何もない。あったはずのものが、どこにもない。年齢も、性別も、自分を指し示し、支えるべき要素全てが、綺麗さっぱりと「それ」の中から消え去っていた。
     よろよろと立ち上がる。まずはこの場所から立ち去らなければ。ぼんやりと靄のかかった思考は、その結論に至る。
     壁に手を付きながら歩き出す。だが、誰も「それ」の姿を追おうとはしない。ただ悲鳴やざわめきだけを「それ」の耳へと運んでいた。
     ショーウィンドウの、ガラスに映る姿と目が合う。
     誰だ、これは誰だ。 
     邂逅の末、「それ」の思考は考えることを放棄することを決定した。
     落ちていく意識。暖かな日差しの中でまどろむような感覚を感じながら、「それ」は穏やかな表情で眠り込んだ。
     自分の名前が当たり前に存在すると、信じながら。




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    第二話「とある天使予報士による観測」4

     天使予報士の朝は早く、夜は遅い。
     上位世界から来訪する「天使」。彼らからヒトを守るには、彼らを監視するのが一番手っ取り早い。
     だが「天使」は時間を指定することはできるが、場所を指定することはできない。彼らの技術では、場所指定の世界間渡航はいまだなされていないのだ。

     だからこそ、ノエル=スノウとサニー=ウェザーは、天使予報士として最も重要な仕事、「天使」の監視のため、夜の街を駆けていた。
     ノエル=スノウは焦っていた。どれほど場所を変えようとも、一向に天使降臨の際特有のあの感覚を感じ取ることはできないでいたのだ。あちらから指定された時間は刻々と近付いている。このまま「天使」降臨の場所を見つけられず降臨が始まってしまえば、興味本位で近付く民間人への被害が出かねない。
     細い道の真ん中で、ノエルは不意に立ち止まった。
    「……埒があかんな。上から捜すぞ!」
    「ふぇ? うっ、上ぇ!?」
     言うが早いか、ノエルは通りに突き出た窓枠に飛び乗ると、そのまま蹴り上がった。耳に届くサニーの声がぐん、と遠ざかる。綺麗な弧を描き、宙を舞う体。空中で体を捻り、姿勢を立て直すと、ノエルは猫のように体を丸めて屋根の上に着地した。
     サニーの驚くような声を背中に聞きながら、ノエルは屋根の上をひた走った。
     肌に感じる、痺れるような、髪が逆立つような感覚。天使がこの付近に降臨しているのは間違いなかった。
     大通りへと近づく。人のざわめきは徐々に大きくなっていく。
     何か甘ったるい匂いに、酒の匂い。様々な色のネオンがきらめく歓楽街だ。
     酒を飲み過ぎて戻してしまった者でもいるのだろうか。複数の男の下品な笑い声が屋根の上まで響いてきた。天使注意報が発令されているというのに、なんとものんきなことだ。
     かすかな音。ノエルは振り向き走り出す。それが聞こえたのは普通に探していたのでは見逃してしまうであろう小さな路地。夜霧に隠れるようにひっそりと起こるそれを、ノエルは発見した。
     揺らめく黒布。顔を覆う幾重もの黒いベール、その奥の、札の吊るされた奇妙なマスク。マスクから漏れる吐息。大の男よりも頭二つ分ほど高い身長――ではない。彼の世界の技術によって作られた飛行制御装置。背に負った光輝く翼の形をしたそれによって、その「天使」は宙に立っていた。
     そして、傍らには見えざる“何か”によって拘束され吊るされた青年。青年の顔へと「天使」の手がゆっくり伸ばされ――
     ノエルは咄嗟に、手にしていた傘を思い切りぶん投げた。傘は空を切り裂き、「天使」の目の前に飛来。怯んだのか、「天使」の手は引込められる。桃色の可愛らしい傘はそのまま、傘らしからぬ固さと鋭さをもって、鈍い音を立てて石畳を抉り突き刺さった。
    「そこで何をしている!」
     ノエルの声は、大音声で響き渡り、「天使」の黒目がちの瞳が、ノエルを発見した。
     「天使」は首を巡らせると、分厚いマスク越しのくぐもった声で問う。
    「何用だ、何用だ、我らが盟友。この度の渡航は申請の上での正式なものである。貴殿が干渉すべきことではないはずだが」
    「天使渡航規制協定、第一条第一項! 天使はヒトに害を与えてはならず、ヒトもまた天使に害を与えてはならない! ……我々の関係の原則だ、まさか知らぬわけではないだろう」
     ノエルは屋根から飛び降りると、傘を持つ腕をまっすぐに彼の者へと伸ばし、「天使」へと宣告した。
    「警告する。速やかにそこな民間人を解放し、あるべき世界へと帰るがいい」
    「――断る。我は、我々は、課せられた任務を放棄することは許されない」
    「その任務とは何だ。そうやって無抵抗な民間人を痛めつけることなのか?」
    「答える必要はない」
     まるで聖剣を構えるように堂々と、ノエルは可愛らしい桃色水玉の傘を体の前に構えた。
    「最後の警告だ、盟友よ。そこな民間人を解放し、彼の世界へと帰るがいい」
     無言。だが、無言のままに、「天使」はちらりと捕えた青年の方を向いた。何かが軋むような音とともに、青年の口から絞り出すような呻き声が響く。このままでは本当に絞め殺されてしまうだろう。
     ノエルは、決断した。
    「ならば仕方あるまい」
     構えた傘を下段へと持ち替える。
    「力づくにでも従っていただく!」
     腰の辺りに水平に構えた傘。姿勢を低くし、体重を前へとかける。そのままノエルは、「天使」へと突進した。
     だがその一撃は、見えざる壁に阻まれた。貫かんとする傘と、それを受け止める壁。おそらくはあの一般人を掴み上げている不可視の手なのだろう。二つの力は拮抗し、火花を散らす。
    「……痴れ者が」
     「天使」の唇から呟かれる悪態。背中の翼が、それ自体が意思を持つかのように波打つ。その時ノエルは――光り輝くその翼のどこにも「目」はなかったのだが――一斉に自分に集まる視線を感じた。ただしそれは善意のものではない。明らかな、悪意のそれだ。
     ちりちりと肌の上を走る電磁波。その装置の思考は、概念として脳内に直接伝わった。
     ――敵性生物、捕捉。
     徐々に光の強まる翼。総毛立つ肌。距離を取らんと、ノエルは透明な壁に接していた傘に力を込め、その反動で飛び退り、固い地面へと着地した。
     幾千にも分化した光は、雨のごとき勢いでノエル目掛けて降り注ぐ。
     砕けた光の群。抉られる石畳。巻き上がる破片。
     たとえ「天使」の技術とはいっても、有するエネルギーは無限ではない。光の弾を延々と撃ち出し続けた翼は、徐々にその光を弱めていき、やがて砲撃はぴたりと止まり、その光はほとんど見えなくなった。だがそれでも人一人を宙へと留まらせる力は保持しているらしく、「天使」はふらふらと宙に浮かんでいた。
     徐々に晴れていく砂煙。その只中で、ノエルは傘を広げた状態で座り込んでいた。ピンク色のどこにでもありそうなその傘には、未だ消え切っていない光弾が、かすり傷すらつけることができずにへばりついていた。
     立ち上がり、駆けだすノエル。慌てた様子で見えざる手を動かす「天使」。だがその手が「天使」を守るより前に、ノエルは十分すぎるほどに距離を詰めていた。
     目標の斜め下方へと到達すると、彼の者らが決まって身につけている顔を覆う奇妙なマスク――どうやら彼の者にとってこの世界の空気は有毒であるようなのだが――そのマスクを、ノエル=スノウは思い切り蹴り上げた。
     顎の下に直撃する一撃。蹴り飛ばされるマスク。仰け反る彼の者の体。彼の背に装着された翼を模した飛行制御装置は、想定外の衝撃によって崩された体バランスに即座に対応することが出来ず、彼の者は身動きの取れないまま空中に数瞬浮遊。
     その腹に容赦なくヒールの一撃を振り下ろし、ノエルは「天使」を地に叩き墜とした。
     固く冷たい石畳へと落下させられた「天使」の体。飛行制御装置によって。マスクに覆われ、見ることの叶わなかったその顔が、露わになっていた。
     マスクの下から現れたのは、若い、青年の顔だった。陶磁器のように白く艶やかな肌。名工によって彫られた彫刻のような、神話の中の天使をまさに具現化させたような、完成された美しさを放っている。
     ただ一つ、ヒトと違うところを挙げるとするならば、ヒトのそれと比べれば異様に大きい黒目だろうか。
     だが今やその美しい顔は苦しげに歪められ、細い指は、喉を掻き毟っていた。
     ノエルはマスクを拾い上げると、傘を構え、その切っ先を、「天使」の喉元へと突きつけた。
    「「天使」よ」
     まさに視線で射殺さんばかりの怒りの形相。端正な顔を限界まで歪め、「天使」はノエルを睨みつけた。
    「退くがいい「天使」よ。こちらとしても盟友を手に掛けたくはない」
     ぎり、と屈辱に噛みしめられる唇。
    「驕るでないぞ、驕るでないぞ、ヒトの子よ!」
     声を荒げ叫ぶ「天使」の姿は、徐々に透き通り、そのまま消えた。




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